この一枚の写真
これは自由に写真を写してもよい、という博物館の意向で昨年栃木県立博物館で写してきたものである。
野澤岩蔵が35歳の歳の写真であり
この写真は姿川尋常高等小学校での”風景”で、”村の版画”が作られた当時の風景である。
疑問点は池田信吾の歳が32歳という表記が気になる。
どう見ても32歳には見えないからで「か?」とういう疑問符が付いているが、用務員さんにしか見えないのは筆者だけだろうか。
時は大正10年代末の風景である。
篠崎喜一郎が自分の家の下宿人川上澄生(横浜生まれの宇都宮中学校の英語教師)を版画家として、この小学校の教職員たちに紹介する風景がこの写真に凝縮されている。篠崎喜一郎自身が元気な姿で写っている。
当時の校長は松本家康であり、37歳という若さをちょび髭で隠し、ひげで校長としての威厳を表現している。
いよいよ村の版画の始まりである。
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埼玉県新座市の臨済宗修行専門道場平林禅寺の伝道板より
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現在、そのカッコいい白衣は3万人のドクターに愛用されているらしい。日本の医師数が約31万人だから約10%の医師が彼の特別白衣を着用しているとのこと。彼の会社の白衣は特別な生地を使う1着2万円のもので、普通の白衣が3千円だから約7倍の高さという超高級品の白衣だが、カッコ良さもあって飛ぶように売れている。
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所得やプライド水準の高いドクターの制服がたったの3千円という盲点を突いたアイディア・ビジネスだが、その社長さんの感度の良さ(安価な白衣に多くの不満があることに気付いた)にあらためて敬服した次第である。いまや、あわせて看護師さんの制服や使いやすい聴診器まで販売している。医療向け新製品の開発にも余念がない。
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ラジオを聴きながらコーヒーを飲み終えた私の結論は、サラリーマンの副業は全面解禁の時機であり、ICTやSNSを活用して自分にない能力を手繰り寄せ・結び付け、売れるビジネスモデルを試行錯誤のなかで組み立てる。そうした能力向上を可能にするトレーニングセンターの設置が日本各地に必要であり、こうしたことの積み重ねが、地域コミュニティの元気と日本社会の発展を生み出すのである。そして最も日本の社会に欠けている”自分の意見が言える(宮使えのサラリーマンではない)中間所得層を増やす”ことにつなげるのが私の当面の目標だ。
☆最後に久米さん曰く(意訳)、新製品も次々に出し、現代の本田宗一郎を見ているようですね!
☆軽妙洒脱の久米宏節に、私もガッテンだ。
今回は特に元気の出るワクワクするラジオ放送であった。
久米さんがラジオの中で言った言葉として印象に残っているのは、「父の姓は本来大橋で、養子に入って久米になった」と記憶している。栃木県の日光・今市地方にはこの大橋姓が多く、久米さんの反骨精神は、そうした土地の文化・風土(一身以て公共に尽くす田中正造の反骨精神や権力に対する反骨精神等)が影響しているのではないか、と私は勝手にそう分析している。
表現者の先達久米宏さんを悼み 合掌
2026.1月大寒
足尾環境問題の先駆者・田中正造の画賛(筆者蔵)
☆彡
私は父の転勤で2つの幼稚園を卒園した。
正確に言うと一つが修了、そしてもう一つは卒業した。
一つ目は、その名も”みさお幼稚園”


校章は当校英語講師の川上澄生によるもの、UJKが百合の中にある
一年保育の昭和37年度すなわち第15回(昭和23年~だから、昭和38年3月は15回目にあたる)修了だから1962年のこと。
栃木県立宇都宮女子高校付設幼稚園だからお姉さん達と一緒に正門から入り、ランドマークの操橋を渡って通園した。
大好きな川上澄生は、戦後ここの英語講師だった(戦前は宇都宮中学の英語教師)。
祖母の母校(大正8年卒業)、100周年記念の操橋の文鎮
一般のバスで5歳児がひとりで通ったが、我ながら大したものだ。
☆彡
もう一つは、佐野市田沼の曹洞宗の幼稚園で明星幼稚園という
園の卒業は、東京オリンピックの年だ。本堂でのお泊りが印象に残る幼稚園だった。
園長の滝口和尚と鈴木格禅先生は駒沢の同期で家族ぐるみの付き合いだったことを60数年ぶりに準子先生から聞いてびっくりした。
大人になってから成城山耕雲寺の座禅会で格禅先生のご提唱をよく聞きに行ったからだ。ご縁はつながるものだ。
明星幼稚園ゆり組のみんなと
☆彡
ここ10年間で収集した私の川上澄生コレクション
彼の宇都宮鶴田在住時代、初期の作品
彼の宇都宮鶴田在住時代、初期の作品
戦後宇都宮女子高校英語講師時代の版画同人誌「鈍刀」での自画像作品
彼の代表作の一つ、昭和14年の日本版画協会展出品作 「南蛮船図A」
戦後川上は、波作品を多数発表し、波を版画で表現するとこうなる、とのべている
川上澄生作品独特の南蛮人たち
昭和36年栃木県立図書館の学習会からスタートした版画同人誌「版芸」は、館長が戦前宇都宮中学で川上と机を並べたかつての同僚・親友村山力で、そして版芸の事務局は宇中時代の教え子で、当時栃木県立図書館職員の赤間一雄であり、彼は自宅に事務局を移しながら40年近く版芸を発行し続けた。版画は「小諸の懐古園」で赤間一雄の作品である(筆者蔵)。
☆彡
私の実家は、戦前の旧制中学教師(英語)、版画家の川上澄生の家と同じ町内会にある。
私は、子供のころから彼が描いた宇都宮市内の菓子屋の包装紙など、彼の絵が好きで、今でも彼の版画を30点ほど収集している。
先日日本経済新聞(朝刊)のアールデコ・パリ万博ポスター(1925年)の紹介紙面を見ていて、”びびん~”ときた。
この絵の飛び跳ねる鹿を背景にした女性の躍動感が、川上澄生の次の作品”初夏の風”(1926年)の”つむじ風?”と姉妹作品でないかと思ったほど、その類似性は高いように思う。
☆栃木県立宇都宮高校にある川上澄生作品のレリーフ
川上澄生も戦前英語教師をしながら、アールデコを勉強していたのだろうか。
カナダ、アラスカから帰国後、宇都宮中学の英語教師になる前に、一時川上は東京で看板屋の仕事に就いていたので、この分野は、もともと彼の関心が高かったものと思われる。
このことは、彼の作品に対する私の初めての”発見”である。
こうしたインスピレーションは共感を呼ぶもので
知り合いの美術館学芸員さん何名かに確認してみたが、私の直観、発見に共感してくれた人もおり、その日はたいへん嬉しい気分になったものだ。
☆へっぽこ先生こと川上澄生のレリーフがある元勤務先の栃木県立宇都宮高校
たばこ好きの彼は、横浜産ながら宇都宮をこよなく愛した。
☆彡
わたしの探究心の始まりがこの表彰状である。自宅のミツバチブンブン(父が、当時20箱、40万匹を養蜂する)を研究して提出した成果だ。高校は理系クラスながら、部活は社会部で社会科(日本史、世界史、倫理社会)と化学が得意だった。両科目とも学年で1番だが、英語が苦手で、大学は理系ながら地方の国立大学で、理系ながら文学思考で同人誌を発行していた。そして今や研究者として情報学者と社会学者を自称している。海外からも講演依頼が舞い込み、著作数は32冊で、そのうち海外での出版は、翻訳本2冊を数える。
現場主義(東京両国でのコミュニティ・ビジネス研究で支援スキームを開発⇒詳細はこちらの本の5章にあり)は、大人になった今でも私の研究スタイルの一つだ。
小学生3年から、自由研究で自ら課題を設定し、アリの研究、太陽軌跡の研究、百葉箱の研究を始める。
⭐️
地元東京都稲城市における公立図書館(全6館)への寄贈(今回の寄贈は「コミュニティ・ビジネス20年史」1冊と「CB絵本復刻版・まちにやさしい仕事」3冊を寄贈)が認められ、昨日2025年9月30日の稲城市立図書館から御礼のハガキをもって、その寄贈本の数は100冊になりました。
これで、私の小さな地域貢献活動の目標を一つクリアしたことになります。
そして
地元東京都稲城市における公立図書館(6館)への寄贈が認められ、稲城市における寄贈本100冊達成を記念して稲城市立図書館から2025年10月1日付で感謝状をいただきました。
著作58冊、寄贈本100冊が認定されました。
皆様のご支援、ご協力に感謝します。
追記
講演先の岡山県笠岡市において、笠岡市立図書館へ自著8冊を寄贈し、その時感謝状をいただきました。
ありがとうございます。
☆彡
研究本論としてコミュニティ・ビジネス研究の軌跡は次の通り
各論として
⭐️
東京墨田区のさいとう工房に法政大学大学院政策創造研究科の学生を引率する
・読売新聞のヨミダスのヒット数は、15件
・朝日新聞のクロスサーチのヒット数は、15件
・日経テレコンのヒット数は、27件
・雑誌記事・論文のヒット数は、55件
・日本工業新聞「シンクタンクの目」への連載(寄稿)記事(紙面は、A3サイズの大きさ)は、4件あり
・専門紙への連載は、ダイヤニュース4回、信用金庫新聞8回、生産性新聞6回である
・Google scholarでの引用件数は、2,530件
そして
・39年間での講演回数は、3,000回(日本国内の47都道府県全部をまわり、海外の招聘講演は5回(韓国4回、台湾1回))を超えた
・著作は27冊で
・そのうち海外における出版(韓国語版)も2冊あり
・論文数はなんと64件となっている
・テレビ・ラジオ(月一回の3年間出演の湘南ビーチFMラジオは、1回のカウントとする)の出演回数は、56回を超えた
・海外視察や招聘講演は、20か国に及ぶ
40年間の研究者として、テーマの新規性を含め、まずまずの成果ではないだろうか
『研究の専門性は、自分で拓くもの、そして深めるもの』が、私の持論である。
☆付則情報として
東京都稲城市中央図書館(ほぼ全著作の56件所蔵)ならびに稲城市あいプラザ図書館(こちらは代表的な著作20件のみ所蔵)には、細内信孝の全著作95件(稲城市内の他館を含む総著作数)を寄贈しましたので、住民主体の地域経営や社会的起業、社会的企業等を研究するコミュニティ・ビジネスの研究者や学生には福音でしょうか。
3.「情報と情報財」研究の軌跡
私は、1980年4月から6年8か月勤めたドイツ系外資系企業ヘキストから、1987年2月に私立大学の経営コンサルティングセンターの研究員になった。本業の経営コンサルティング以外の自主研究として、前職の時から関心があった”情報”について勤務先の姉妹校短大の田中功助教授(後日、田中氏は、日本女子大学の教授となる)の先導のもとに共同研究を始めた。その成果が次の一連の論文(1989年~)であった。
専門図書館123号(1989年4月発行)の拙著の中にはじめて”情報財”という言葉が出てくる。

<以下の写真は、クリックすると拡大します>
そして情報財という言葉が、まだグーグルやほかの検索エンジンにも出てこない時期(1987年から1990年代初頭)にいち早く興味を持ち、その概念形成に果敢に取り組んだ(これを研究という)。そして、その論文が、勤務先の大学法人の姉妹校である産能短大の1990年2月発行第23号の紀要に掲載された。それが、次の拙著・論文(情報財の基礎理論に関する研究:査読あり、1989年10月の受理)だ。
紙面の関係で写真はここまでとし、小論を詳しく知りたい方は当時筆者が在籍していた産能短大(現・自由ケ丘産能短大)の図書館(短大紀要第23号、1990)へ、ご確認ください。オリジナルが所蔵されている。
さらに、当時新しく設立された情報文化学会の全国大会での発表とその成果をまとめたものが次のものである。すでに大学の研究員から大手信託銀行のシンクタンクに移籍(1991年)していたため、細内の肩書は、住信基礎研究所副主任研究員となっている。
当時1990年代の論文は、まだまだ手書きの図表が幅を利かしていた。次の図表も自ら描いたものだがたいへん懐かしい。
この時(1993年11月発表)の論文は、国立国会図書館のデジタルコレクション(学会誌は1994年7月発行)に収められているので、そちらをご笑覧ください。
この学会発表がご縁となり、大分県の豊の国シンポジウム(大分医科大学主催)から招待され、”情報と情報財”についての講演話しが舞い込んだ。しかもノーベル化学賞受賞者福井博士の前座で”情報と情報財”の講演を行うのである。嬉しさ100倍である。

福井先生の写真の下にある会場の写真に私と後に東大教授になる川口さんも隣同士で写っている。統一テーマは「発想の原点を探る」である。私は、とうとう念願の「情報創造と情報財」について招待講演を行った(1994年5月)。
これらの「情報と情報財」に関する一連の研究が1987年から始まり、2007年から2020年3月まで連続13年間務めることになる総務省の”地域情報化アドバイザー”に繋がるのである。
4.研究テーマが面白ければ、それは芋ずる式に広がっていく
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コミュニティ・ビジネス・ネットワーク(CBN)は、コミュニティ・ビジネス(CB)のあゆみとして、その20年史を発行しました。
この冊子「コミュニティ・ビジネス20年史」には、コミュニティ・ビジネス普及のグローバル化が含まれています。
細内所長は、CB総研所長、かつCBN会長として、
2003年9月英国視察(英国外務省の招聘)、2008年9月韓国ソウル招聘講演(希望製作所の招聘)、2010年7月韓国招聘講演(京畿道福祉財団の招聘)、2017年11月韓国全州招聘講演(韓国政府系財団の招聘)、2017年12月韓国完州招聘講演(完州郡庁の招聘)、コロナ収束明けの2023年12月には、台湾客家委員会から招聘を受け、コミュニティ・ビジネスの招聘講演を台北市で行っています。
そして2007年、2008年には、細内信孝著の翻訳本2冊が韓国で発行されました。またそのころ中国の通信社からもコミュニティ・ビジネスについて取材を受けています。
いまやコミュニティ・ビジネスは、東アジア一帯にその広がりを見せています。
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研究者として活動した29歳から68歳までの40年間溜まりにたまった研究資料を整理(断捨離)し、近隣の公立図書館で細内所長の研究成果のヒット件数を調べてみた。
ふるさとの栃木県立博物館にて
細内信孝で各検索をしてみたら
次のような結果が出た。
・読売新聞のヨミダスでのヒット数は、15件
・朝日新聞のクロスサーチでのヒット数は、15件
・日経テレコンでのヒット数は、27件
・雑誌記事・論文のヒット数は、55件
・日本工業新聞「シンクタンクの目」への連載(寄稿)記事(紙面は、A3サイズの大きさ)は、4件あり
・専門紙への連載は、ダイヤニュース4回、信用金庫新聞8回、生産性新聞6回である
・Google scholarでの引用件数は、2,530件
そして
・39年間の講演回数は、
3,000回(最初は大学の公開講座から始まり、国内47都道府県の全部をまわり、海外の招聘講演は5回(韓国4回、台湾1回)に
迫った
・著作は27冊で
・そのうち海外における出版(韓国語版)は、2冊あり
・論文数は、64件
・テレビ・ラジオ(月一の3年間出演の湘南ビーチFMラジオは1回分のカウントとする)の出演回数は、56回を超えた
・海外視察や海外の招聘講演は、20か国に及ぶ
39年間の研究者として、テーマの新規性を含め、まずまずの成果ではないか。
「研究の専門性は、自分で拓くもの、そして深めるもの」が、私の持論である。
当ブログ1556回目の作成にあたり、これまで共感(サポート)してくれた多くのみなさんに感謝である。
わたしの研究活動への共感に対し、感謝の言葉「どうもありがとう」
そして私の研究生活は、まだまだ続きます。
☆付録
東京都稲城市中央図書館(ほぼ全著作の58件)ならびに稲城市あいプラザ図書館(こちらは代表的な著作が20件のみ)には、細内信孝の全著作100件(稲城市内の他館を含む)を寄贈しましたので、住民主体の地域経営や社会的起業、社会的企業等を研究するコミュニティ・ビジネスの研究者や学生には福音でしょうか。若人の奮起を期待します。
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母方のわが従弟会・山羊の会は仲が良い。明治以降商家の大家族(下記写真)のもとで育ったせいか、みんな和気あいあいとしている。
先日も従弟会9回目(コロナで中断していたが再会した)の総会が新宿の南国酒家で開催されたが、特別編として今年の晩秋に名古屋開催を予定している。
そこで名古屋(愛知県)、岐阜など、今まで私が両県で仕事をしてきたその足跡を改めて紹介しよう。
名古屋の将来を語る懇談会:市長主催 2005: 公式ブログ 細内所長の旅日記
細内所長の岐阜県における講演会活動(2001年~今まで)はこちら: 公式ブログ 細内所長の旅日記
今回ブログにしたためなかった講演地は他にも沢山あり、蒲郡市で開催された愛知県商工会議所連合会の講演会や北名古屋市、豊橋市、豊田市、名古屋市(教育委員会主催)、半田市、弥富市、豊川市、尾張旭市、犬山市(名鉄ホテルにて)などがある。
以外にも中京方面には足蹴く通っていたことになる。