2026年8月27日 (木)

宇都宮の南西部にある江曽島(エソシマ)と資料小屋(山の神)

民間伝承ながら宇都宮市江曽島(えそしま)には次のような伝承がある。

まだ北関東が大和朝廷の勢力下に入る前(1900年前)のことである。

この話は伝承であるが奥が深い。間違いも多少あるが大筋では的確だ。

4世紀以前は文字がないからこうした伝承が重要だ。

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そして、先日近くにクマの出た宇都宮の南西部にある私の資料小屋(小字が山の神)がある。

写真をクリックしてみよう、拡大するから。

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空き地に建つ小さな資料小屋であるが、ここ20年は活用していない。

草はいま伸び盛りで敷地いっぱいに広がっている。

たくさんの資料はいま小屋でどうしているのだろうか?

少し気がかりである。

江曽島とは少ししか離れていない。

☆彡

 

大中寺の由来

大中寺には、七不思議の由来がある。

江戸時代に関東の曹洞宗寺院を管理していたが、いまは静かな里にある寺院である。

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ここの七不思議は、今昔物語や雨月物語にも掲載されている。

☆彡

2026年8月25日 (火)

ブドウ畑とワイナリー

背景にせまる急峻なブドウ畑

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22年前の写真である。

足利のココ・ファーム・ワイナリーでの園長のお話し。

やってんべ!みんなで力を合わせて!園長の合言葉だ。

園長に初めて会ったのは1998年のこと。

まだ眠らせていたスパークリングワイン(その2年後ノボと命名)をご馳走になった。

そもそもは足利における栃木県主催のコミュニティ・ビジネス講演会での話し。

細内さんが言っているコミュニティ・ビジネスがうちにもあるから行ってみようと

足利商工会議所の中島専務に誘われていったのがきっかけだった。

☆彡

 

2026年8月22日 (土)

5千年の泉

仏教文庫のある狛江の泉龍寺

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そのなかで道元禅師の正法眼蔵が一大著作か

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それとも縄文中期からあるこの泉が名物か

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これは長嶋茂雄氏の逝去時に展示されていたもの・稲城市

約100年前の日米野球史、ベーブ・ルースの足跡を残す

歴史はこうして作られる。

☆彡

2026年8月20日 (木)

美人三姉妹

江戸老中を輩出する3万石の城下町壬生の美人三姉妹と大叔母のお写真

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昭和11年ころの撮影

7歳、5歳、3歳の仲良し姉妹たち。

この写真の主人公5歳の伯母は世田谷経堂の老人ホームでいまも健在である。

⭐️

2026年7月 7日 (火)

縄文遺跡

5千年前の多摩ニュータウン遺跡から出た遺物の数々

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この人達はどこへ消えたか。

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100年を5世代として、1000年で50世代。

5千年前は、50世代の5倍だから、250世代前の人々が作った縄文中期の産物だ。

☆彡

2026年7月 3日 (金)

宇都宮中学4年目の川上澄生

宇都宮高校同窓会誌より大正13年の甲子園出場の写真である。

川上澄生はたしか野球部の部長であった。

版画家川上澄生(本名澄雄)が宇都宮中学への着任後4年目の姿で一番右端に”ど~ん”と存在していた。

今から約100年前の写真である。

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版画家川上がまだ真面目に生徒と向き合っていた頃の姿である。

☆彡

 

2026年6月19日 (金)

なぞの写真

この一枚の写真

これは自由に写真を写してもよい、という博物館の意向で昨年栃木県立博物館で写してきたものである。

野澤岩蔵が35歳の歳の写真であり

この写真は姿川尋常高等小学校での”風景”で、”村の版画”が作られた当時の風景である。

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疑問点は池田信吾の歳が32歳という表記が気になる。

どう見ても32歳には見えないからで「か?」とういう疑問符が付いているが、用務員さんにしか見えないのは筆者だけだろうか。

時は大正10年代末の風景である。

篠崎喜一郎が自分の家の下宿人川上澄生(横浜生まれの宇都宮中学校の英語教師)を版画家として、この小学校の教職員たちに紹介する風景がこの写真に凝縮されている。篠崎喜一郎自身が元気な姿で写っている。

当時の校長は松本家康であり、37歳という若さをちょび髭で隠し、ひげで校長としての威厳を表現している。

いよいよ村の版画の始まりである。

☆彡

2026年6月 8日 (月)

古希乾杯!

昨年2025年母方の従弟会の写真です。

曾祖母は、美濃の長井斎藤氏に繋がる旗本井上多聞家で、明治期に江戸の旗本家から栃木市西方の造酒屋に嫁にきました。

時は明治のご維新です。その領地が上三川町だったことも影響しています。

その由来は、こちらとあちら、そしてそちらからも

ぞろぞろと出てきました。

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南国酒店の京王新宿店にて

 

従弟会もコロナ禍の影響で、ここ数年間は休止していました。

彼らの出身大学も、横浜国大、東京外語大、早稲田大、信州大学、明治学院大、独協大と大学も豊富で多彩です。

平均年齢も70歳代となり、ジジババぶりを発揮しています。

☆彡

2026年1月14日 (水)

再録:2017年2月17日細内所長ブログから、表現者の先達、久米宏さんを悼む

2026年1月1日天国へ旅立った表現者の先達・久米宏さんを悼み、当時TBSラジオの「久米宏ラジオなんですけど」を愛聴していた細内所長のワクワク日記、「第699回細内所長ブログ」(2017.2.17)を、先達の鬼籍入りを悼み、ここに再録します。

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埼玉県新座市の臨済宗修行専門道場平林禅寺の伝道板より

2017年2月19日 (日) 第699回細内ブログ「久米宏ラジオなんですけど」から学ぶ、サラリーマン副業のすすめ 

昨日、土曜日の午後に毎週愛聴しているTBSの「久米宏ラジオなんですけど」をコーヒーを飲みながら、何気なしに流して聴いていたら、今週のスポットライトに白衣メーカーの社長さんが出演した。創業が2008年12月だから、まだ10年未満の株式会社だそうだ(社員13人の少数精鋭)。

その会社の社長さんの何が面白いかというと、その社長さんはIT企業に勤務していた普通のサラリーマンだったが、平日の夜や土日などの余暇時間を活用して、カッコいい白衣づくりのための行動を興す。つまり白衣起業をサラリーマン時代の副業として取り組んだということである。しかも起業のきっかけが、高校の同窓会に参加した時、同級生医師の白衣に対するボヤキからである。

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そして、もう一つ面白いことは、六次の隔たり(ICT&SNS)を活用して、自分に不足している能力・技術を持つ人をパッチワーク的に当てはめ、結びつけ、苦心の末、とうとうカッコいい白衣づくりのビジネス・モデルを構築したところにある。だから現在社員が13人でも可能なビジネスとなり、海外にも生産体制を作りユニクロ・モデルに近いビジネス・モデルとなる。

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現在、そのカッコいい白衣は3万人のドクターに愛用されているらしい。日本の医師数が約31万人だから約10%の医師が彼の特別白衣を着用しているとのこと。彼の会社の白衣は特別な生地を使う1着2万円のもので、普通の白衣が3千円だから約7倍の高さという超高級品の白衣だが、カッコ良さもあって飛ぶように売れている。
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所得やプライド水準の高いドクターの制服がたったの3千円という盲点を突いたアイディア・ビジネスだが、その社長さんの感度の良さ(安価な白衣に多くの不満があることに気付いた)にあらためて敬服した次第である。いまや、あわせて看護師さんの制服や使いやすい聴診器まで販売している。医療向け新製品の開発にも余念がない。
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ラジオを聴きながらコーヒーを飲み終えた私の結論は、サラリーマンの副業は全面解禁の時機であり、ICTやSNSを活用して自分にない能力を手繰り寄せ・結び付け、売れるビジネスモデルを試行錯誤のなかで組み立てる。そうした能力向上を可能にするトレーニングセンターの設置が日本各地に必要であり、こうしたことの積み重ねが、地域コミュニティの元気と日本社会の発展を生み出すのである。そして最も日本の社会に欠けている”自分の意見が言える(宮使えのサラリーマンではない)中間所得層を増やす”ことにつなげるのが私の当面の目標だ。

☆最後に久米さん曰く(意訳)、新製品も次々に出し、現代の本田宗一郎を見ているようですね!

☆軽妙洒脱の久米宏節に、私もガッテンだ。

今回は特に元気の出るワクワクするラジオ放送であった。

 

久米さんがラジオの中で言った言葉として印象に残っているのは、「父の姓は本来大橋で、養子に入って久米になった」と記憶している。栃木県の日光・今市地方にはこの大橋姓が多く、久米さんの反骨精神は、そうした土地の文化・風土(一身以て公共に尽くす田中正造の反骨精神や権力に対する反骨精神等)が影響しているのではないか、と私は勝手にそう分析している。

表現者の先達久米宏さんを悼み 合掌 

2026.1月大寒

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足尾環境問題の先駆者・田中正造の画賛(筆者蔵)

☆彡

2025年12月27日 (土)

私の中の2つの幼稚園

私は父の転勤で2つの幼稚園を卒園した。

正確に言うと一つが修了、そしてもう一つは卒業した。

一つ目は、その名も”みさお幼稚園”

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校章は当校英語講師の川上澄生によるもの、UJKが百合の中にある

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一年保育の昭和37年度すなわち第15回(昭和23年~だから、昭和38年3月は15回目にあたる)修了だから1962年のこと。

栃木県立宇都宮女子高校付設幼稚園だからお姉さん達と一緒に正門から入り、ランドマークの操橋を渡って通園した。

大好きな川上澄生は、戦後ここの英語講師だった(戦前は宇都宮中学の英語教師)。

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祖母の母校(大正8年卒業)、100周年記念の操橋の文鎮

一般のバスで5歳児がひとりで通ったが、我ながら大したものだ。

☆彡

もう一つは、佐野市田沼の曹洞宗の幼稚園で明星幼稚園という

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園の卒業は、東京オリンピックの年だ。本堂でのお泊りが印象に残る幼稚園だった。

園長の滝口和尚と鈴木格禅先生は駒沢の同期で家族ぐるみの付き合いだったことを60数年ぶりに準子先生から聞いてびっくりした。

大人になってから成城山耕雲寺の座禅会で格禅先生のご提唱をよく聞きに行ったからだ。ご縁はつながるものだ。

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明星幼稚園ゆり組のみんなと

☆彡

2025年12月23日 (火)

思い出の川上澄生コレクション

ここ10年間で収集した私の川上澄生コレクション

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彼の宇都宮鶴田在住時代、初期の作品

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彼の宇都宮鶴田在住時代、初期の作品

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戦後宇都宮女子高校英語講師時代の版画同人誌「鈍刀」での自画像作品

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彼の代表作の一つ、昭和14年の日本版画協会展出品作 「南蛮船図A」

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戦後川上は、波作品を多数発表し、波を版画で表現するとこうなる、とのべている

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川上澄生作品独特の南蛮人たち

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昭和36年栃木県立図書館の学習会からスタートした版画同人誌「版芸」は、館長が戦前宇都宮中学で川上と机を並べたかつての同僚・親友村山力で、そして版芸の事務局は宇中時代の教え子で、当時栃木県立図書館職員の赤間一雄であり、彼は自宅に事務局を移しながら40年近く版芸を発行し続けた。版画は「小諸の懐古園」で赤間一雄の作品である(筆者蔵)。

☆彡

2025年12月15日 (月)

1925年アールデコ・パリ万博のポスターに共感を覚える川上澄生作品

私の実家は、戦前の旧制中学教師(英語)、版画家の川上澄生の家と同じ町内会にある。

私は、子供のころから彼が描いた宇都宮市内の菓子屋の包装紙など、彼の絵が好きで、今でも彼の版画を30点ほど収集している。

先日日本経済新聞(朝刊)のアールデコ・パリ万博ポスター(1925年)の紹介紙面を見ていて、”びびん~”ときた。

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この絵の飛び跳ねる鹿を背景にした女性の躍動感が、川上澄生の次の作品”初夏の風”(1926年)の”つむじ風?”と姉妹作品でないかと思ったほど、その類似性は高いように思う。

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☆栃木県立宇都宮高校にある川上澄生作品のレリーフ

川上澄生も戦前英語教師をしながら、アールデコを勉強していたのだろうか。

カナダ、アラスカから帰国後、宇都宮中学の英語教師になる前に、一時川上は東京で看板屋の仕事に就いていたので、この分野は、もともと彼の関心が高かったものと思われる。

このことは、彼の作品に対する私の初めての”発見”である。

こうしたインスピレーションは共感を呼ぶもので

知り合いの美術館学芸員さん何名かに確認してみたが、私の直観、発見に共感してくれた人もおり、その日はたいへん嬉しい気分になったものだ。

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☆へっぽこ先生こと川上澄生のレリーフがある元勤務先の栃木県立宇都宮高校

たばこ好きの彼は、横浜産ながら宇都宮をこよなく愛した。

☆彡

2025年11月 7日 (金)

探究心は若いうち(小学生)から鍛えろ!

わたしの探究心の始まりがこの表彰状である。自宅のミツバチブンブン(父が、当時20箱、40万匹を養蜂する)を研究して提出した成果だ。高校は理系クラスながら、部活は社会部で社会科(日本史、世界史、倫理社会)と化学が得意だった。両科目とも学年で1番だが、英語が苦手で、大学は理系ながら地方の国立大学で、理系ながら文学思考で同人誌を発行していた。そして今や研究者として情報学者と社会学者を自称している。海外からも講演依頼が舞い込み、著作数は32冊で、そのうち海外での出版は、翻訳本2冊を数える。

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現場主義(東京両国でのコミュニティ・ビジネス研究で支援スキームを開発⇒詳細はこちらの本の5章にあり)は、大人になった今でも私の研究スタイルの一つだ。

小学生3年から、自由研究で自ら課題を設定し、アリの研究、太陽軌跡の研究、百葉箱の研究を始める。

⭐️

2025年10月 1日 (水)

私の著作58冊で、稲城市立図書館への寄贈本は100冊を達成しました

地元東京都稲城市における公立図書館(全6館)への寄贈(今回の寄贈は「コミュニティ・ビジネス20年史」1冊と「CB絵本復刻版・まちにやさしい仕事」3冊を寄贈)が認められ、昨日2025年9月30日の稲城市立図書館から御礼のハガキをもって、その寄贈本の数は100冊になりました。

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これで、私の小さな地域貢献活動の目標を一つクリアしたことになります。

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そして
地元東京都稲城市における公立図書館(6館)への寄贈が認められ、稲城市における寄贈本100冊達成を記念して稲城市立図書館から2025年10月1日付で感謝状をいただきました。

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著作58冊、寄贈本100冊が認定されました。

皆様のご支援、ご協力に感謝します。

 

追記

講演先の岡山県笠岡市において、笠岡市立図書館へ自著8冊を寄贈し、その時感謝状をいただきました。

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ありがとうございます。

☆彡

 

2025年9月24日 (水)

経営者が貴族文化に着目する発想はとてもユニークだ

NHKの朝ドラ『あんぱん』もいよいよ最終週だが、1990年代初頭、当時在籍していたシンクタンクの親会社S信託銀行の意向でサンリオの貴族文化研究会に出席したことを思い出した。
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そこで辻会長にお会いしたが、大きな黒縁眼鏡と人なっこい笑顔が今でも印象に残っている。温和な語り口も人をひきつける要素だが、貴族文化に着目する発想はたいへんユニークであった。
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サンリオのテーマパーク、ピューロランド開園後間もないころで、今でもいただいたテーマパークのマグカップが私の事務所の机の上に置かれている。何千杯のコーヒーをこれでいただいたであろうか。感慨深いものである。
☆彡

2025年9月 3日 (水)

私の研究本論、コミュニティ・ビジネス

研究本論としてコミュニティ・ビジネス研究の軌跡は次の通り

・コミュニティ・ビジネスの研究史

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講演実績は3,000回  書籍は30万部発行

細内所長の研究成果を概観

各論として

・地域探究の手法(1、2、3) 

・持続可能な地域コミュニティとは 

・地域コミュニティにおける決定権の回復

・身丈の地域活性化 

・岡山県における10年間のコミュニティ・ビジネス講演 

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⭐️

2025年9月 2日 (火)

私の研究序説

1.学生に知ってもらいたい研究者と学者の違い 

私は、40年間にわたり研究者であって単なる学者ではない。いわば真理究明に真正面から取り組む猿田彦の存在なのである。

☆彡


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☆彡
1999年に細内信孝著『コミュニティ・ビジネス』中央大学出版部を上梓したが、この本はコミュニティの現場などで、NPO法や介護保険法の施行前後のこともあって、多くの影響をもたらした。そして20年が経過した2020年から見た批評を加える学者がいまだに少なくない。
☆
しかし、1990年代の研究成果に20年も経過した現時点での視座をもって批判するのはお門違いのことである。
☆
研究者とは、よく調べて考え、真理を極める人のことであるから、新しいことを発見することに力点を置いている。
それに対して大学などで教鞭をとる教員(一般的な学者)は、その学問分野に対して正しい受け答えが必要になり、間違えは許されない。よってその内容を充分吟味する必要がある。だからといって学者が真で研究者が偽であるとは限らない。
研究者と学者は立ち位置や真理の究明方法が違うのある。研究者はアート的に現場でフレームワークを組み立てデザインする、一方学者は現場のデータを収集分析しサイエンスを行う。
だからこそ、学者は先行する研究者へのリスペクトと批評には充分注意を払って望んでもらいたい。世の中には両者が必要なのだ。
☆
このことを若い学生、研究者、学者を目指す人に正しく伝えてほしい。
☆
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東京墨田区のさいとう工房に法政大学大学院政策創造研究科の学生を引率する

 

2.私のライフワーク、研究活動を振り返る

細内が研究者として活動した29歳から68歳までの40年間溜まりにたまった研究資料を整理し、近隣の公立図書館で細内の研究成果のヒット件数を調べてみた。すると次のような結果が出た。


・読売新聞のヨミダスのヒット数は、15件

・朝日新聞のクロスサーチのヒット数は、15件

・日経テレコンのヒット数は、27件

・雑誌記事・論文のヒット数は、55件

・日本工業新聞「シンクタンクの目」への連載(寄稿)記事(紙面は、A3サイズの大きさ)は、4件あり

・専門紙への連載は、ダイヤニュース4回、信用金庫新聞8回、生産性新聞6回である

・Google scholarでの引用件数は、2,530件

そして

・39年間での講演回数は、3,000回(日本国内の47都道府県全部をまわり、海外の招聘講演は5回(韓国4回、台湾1回))を超えた

・著作は27冊で

・そのうち海外における出版(韓国語版)も2冊あり

・論文数はなんと64件となっている

・テレビ・ラジオ(月一回の3年間出演の湘南ビーチFMラジオは、1回のカウントとする)の出演回数は、56回を超えた

・海外視察や招聘講演は、20か国に及ぶ

みんなが無料で検索できる公共財のデータベースヒット件数は、

40年間の研究者として、テーマの新規性を含め、まずまずの成果ではないだろうか

『研究の専門性は、自分で拓くもの、そして深めるもの』が、私の持論である。

☆付則情報として

東京都稲城市中央図書館(ほぼ全著作の56件所蔵)ならびに稲城市あいプラザ図書館(こちらは代表的な著作20件のみ所蔵)には、細内信孝の全著作95件(稲城市内の他館を含む総著作数)を寄贈しましたので、住民主体の地域経営や社会的起業、社会的企業等を研究するコミュニティ・ビジネスの研究者や学生には福音でしょうか。

 

3.「情報と情報財」研究の軌跡

私は、1980年4月から6年8か月勤めたドイツ系外資系企業ヘキストから、1987年2月に私立大学の経営コンサルティングセンターの研究員になった。本業の経営コンサルティング以外の自主研究として、前職の時から関心があった”情報”について勤務先の姉妹校短大の田中功助教授(後日、田中氏は、日本女子大学の教授となる)の先導のもとに共同研究を始めた。その成果が次の一連の論文(1989年~)であった。




専門図書館123号(1989年4月発行)の拙著の中にはじめて”情報財”という言葉が出てくる。

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<以下の写真は、クリックすると拡大します>

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そして情報財という言葉が、まだグーグルやほかの検索エンジンにも出てこない時期(1987年から1990年代初頭)にいち早く興味を持ち、その概念形成に果敢に取り組んだ(これを研究という)。そして、その論文が、勤務先の大学法人の姉妹校である産能短大の1990年2月発行第23号の紀要に掲載された。それが、次の拙著・論文(情報財の基礎理論に関する研究:査読あり、1989年10月の受理)だ。

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紙面の関係で写真はここまでとし、小論を詳しく知りたい方は当時筆者が在籍していた産能短大(現・自由ケ丘産能短大)の図書館(短大紀要第23号、1990)へ、ご確認ください。オリジナルが所蔵されている。

さらに、当時新しく設立された情報文化学会の全国大会での発表とその成果をまとめたものが次のものである。すでに大学の研究員から大手信託銀行のシンクタンクに移籍(1991年)していたため、細内の肩書は、住信基礎研究所副主任研究員となっている。

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当時1990年代の論文は、まだまだ手書きの図表が幅を利かしていた。次の図表も自ら描いたものだがたいへん懐かしい。

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この時(1993年11月発表)の論文は、国立国会図書館のデジタルコレクション(学会誌は1994年7月発行)に収められているので、そちらをご笑覧ください。

この学会発表がご縁となり、大分県の豊の国シンポジウム(大分医科大学主催)から招待され、”情報と情報財”についての講演話しが舞い込んだ。しかもノーベル化学賞受賞者福井博士の前座で”情報と情報財”の講演を行うのである。嬉しさ100倍である。

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福井先生の写真の下にある会場の写真に私と後に東大教授になる川口さんも隣同士で写っている。統一テーマは「発想の原点を探る」である。私は、とうとう念願の「情報創造と情報財」について招待講演を行った(1994年5月)。

これらの「情報と情報財」に関する一連の研究が1987年から始まり、2007年から2020年3月まで連続13年間務めることになる総務省の”地域情報化アドバイザー”に繋がるのである。

 

4.研究テーマが面白ければ、それは芋ずる式に広がっていく


私は銀行系シンクタンクの仕事で、全国各地のテーマパークを取材しました。特にTDLには70回(現場主義)以上通いつめました。今は、インターネットの時代ですから、当時私が書いた論文や寄稿を見たマスコミから今でも問い合わせが来ます。このことは研究者冥利につきます。
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そして研究テーマが面白ければ、それは芋ずる式に広がっていくことを実感しました。日本のテーマパークを中心にあえてそのストリーを公開しましょう。特に10代の若者には、「研究者はおススメの職業である」と言いたいです。もし中学・高校などから講演の依頼があれば、いつでも出かける用意があります。
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1990年代前半に銀行のシンクタンク勤務で感じたことを述べてみよう。1991年に私が調査した日本全国のテーマパーク事業は、当時クライアントから求められた調査研究テーマの一つであった。1983年4月15日に東京ディズニーランドが開園してから8年が経過し、わが国のテーマパークの事業要因を考察してほしいという要望に基づいて行われたものである。わが国のエンターテイメントビジネスはまだ黎明期であった。

1992年のテーマパーク研究の報告書は、3月版、9月版と2冊あり、2年度に渡って実施され、クライアントに納品された後、早速研究所の機関誌にその概要記事を書くようにと業務命令が来たが、その結果が機関誌(1993年1月号、住信基礎研究所発行)に掲載された小論である。

しばらくして研究所の機関誌を見た外部の出版社から原稿依頼がきた。当時は外部への講演や寄稿は、研究所にその謝礼金や印税の半分を納めれば自由にやってよいことになっていた。続いて週刊ダイヤモンドへの寄稿は、1993年9月4日号である。

そして日本経済新聞社からの取材や銀座にあるレジャー&レクパーク関係の出版社からも寄稿の依頼がきた。それが、「レジャーランド&レクパーク総覧1994」の第一章「日本のレジャーランド考」(1993年11月発行)への寄稿である。

同時期に日本経営診断学会からも全国大会(東京・玉川大学にて開催)での発表依頼と学会誌への論文執筆となった。

私にとって研究者冥利に尽きないことは、この芋づる式の仕事発生や次の移籍先(1994年より)の研究所(オムロンの社会文化研究所)で、”コミュニティ・ビジネスが、地域コミュニティを元気にする”という新たな研究テーマとなって、世間に求められ、全国各地を巡回する3000回を超える講演会となって、大きな花を咲かすのである。


29歳で普通のビジネスマンから研究所の研究員となり、かつ成果報酬による年棒制となり、時間を気にすることもなく、眠気と格闘しながら、自由に自分の研究テーマを考える時間が出来たことが、時には徹夜もいとわず、1週間同じ研究命題を考え続ける研究グセが付いたことである。このような研究グセも研究者としての矜持の一つである。

その想いの源は、当時日本のテーマパーク業界は、アメリカのようなショービジネスやエンターテイメントビジネスに関する知見やノウハウの蓄積に乏しく、特に、地方で苦戦している中規模の新規テーマパークを視察する度に、地方には地方にふさわしい地域資源を活用した、住民主体の小規模事業(地域おこし)があるはずだ、という想いを強くしたのである。

この想いが、1994年より移籍する新たな研究所(社会文化研究所)の地方創生の研究で、”コミュニティ・ビジネス(住民主体のスモール・ビジネス)が地域コミュニティを元気にする”という研究テーマとなって、大きく花を咲かすのである。

そして、その後、着工中の日本映画のテーマパークや”峠と鉄道”のテーマパークの事業性評価の仕事が入り、公私ともに忙しくなる。またアトムで有名なプロダクションから自社のテーマパーク構想に関する事業計画書を見て欲しいという連絡が入り、その協力に応じたが、そのテーマパークの着手、完成を見なかったことがしごく残念なことであった。当時景気がわるかったことも一因であるが、テーマパーク事業に着手しないことも選択肢の一つであり、当時としては、社長の熟慮の末の大英断だったかもしれない。


こうした成功率の低い中・大規模なテーマパーク事業が、次に研究着手していった”住民主導のスモールビジネス”である”コミュニティ・ビジネス研究の反面教師”となって、世の中を少しずつ変えていったのである。この30数年前から始めたコミュニティ・ビジネスの研究は、私のライフワークとなり、国内はもとより東アジアの国々からも講演の依頼や出版の話しが舞い込み、古希を迎えようとする今でもその準備に余念がない。
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(つづく)

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2025年8月21日 (木)

ムーミンパパの老後エッセイ

1970年代の多摩ニュータウン南東端に連なる柿生の里の住宅開発の様子が、山室静のエッセイから読み取れて懐かしい。

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かつて私も住んでいた柿生の里の環境激変だ。山室さんは1949年から柿生の里に住み、日本にムーミンを紹介した児童文学者で、信州佐久岩村田の出身だ。私も信州大学で4年間勉学に励んだ。

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地元の図書館から取り寄せた山室文学。老後の読書に最適な山室静さんの三大エッセイ集だ。柿生の里には狐狸庵先生こと遠藤周作先生も1963年から柿生(玉川学園)の里に住んでいた。同じ里のムジナたちだ。

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☆彡

2025年7月29日 (火)

若者には、研究者はおススメの職業である


むかしむかし、私は銀行系シンクタンクの仕事で、全国各地のテーマパークを取材しました。特にTDLには70回(現場主義)以上通いつめました。インターネットの時代ですから、今でも当時の論文や寄稿を見たマスコミから問い合わせが来ます。このことは研究者冥利につきます。
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そして研究テーマが面白ければ、それは芋ずる式に広がっていくことを実感しました。日本のテーマパークを中心にあえてそのストリーを公開しましょう。特に10代の若者には、「研究者はおススメの職業である」と言いたいです。もし中学・高校などから講演の依頼があれば、いつでも出かける用意があります。
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最近の流行は、恐竜アトラクションだ
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1990年代前半に銀行のシンクタンク勤務で感じたことを述べてみよう。1991年に私が調査した日本全国のテーマパーク事業は、当時クライアントから求められた調査研究テーマの一つであった。1983年4月15日に東京ディズニーランドが開園してから8年が経過し、わが国のテーマパークの事業要因を考察してほしいという要望に基づいて行われたものである。わが国のエンターテイメントビジネスはまだ黎明期であった。

1992年のテーマパーク研究の報告書は、3月版、9月版と2冊あり、2年度に渡って実施され、クライアントに納品された後、早速研究所の機関誌にその概要記事を書くようにと業務命令が来たが、その結果が機関誌(1993年1月号、住信基礎研究所発行)に掲載された小論である。

しばらくして研究所の機関誌を見た外部の出版社から原稿依頼がきた。当時は外部への講演や寄稿は、研究所にその謝礼金や印税の半分を納めれば自由にやってよいことになっていた。続いて週刊ダイヤモンドへの寄稿は、1993年9月4日号である。

そして日本経済新聞社からの取材や銀座にあるレジャー&レクパーク関係の出版社からも寄稿の依頼がきた。それが、「レジャーランド&レクパーク総覧1994」の第一章「日本のレジャーランド考」(1993年11月発行)への寄稿である。

同時期に日本経営診断学会からも全国大会(東京・玉川大学にて開催)での発表依頼と学会誌への論文執筆となった。

一番の研究者冥利に尽きないことは、この芋づる式の仕事発生や次の移籍先(1994年より)の研究所(オムロンの社会文化研究所)で、”コミュニティ・ビジネスが、地域コミュニティを元気にする”という新たな研究テーマとなって世間に求められ、全国3000回を超える講演となって、大きな花を咲かすのである。

29歳で普通のビジネスマンから研究所の研究員となり、かつ成果報酬による年棒制となり、時間を気にすることもなく、眠気と格闘しながら、自由に自分の研究テーマを考える時間が出来たことが、時には徹夜もいとわず、1週間同じ研究命題を考え続ける研究グセが付いたことである。このような研究グセも研究者としての矜持の一つである。

その想いの源は、当時日本のテーマパーク業界は、アメリカのようなショービジネスやエンターテイメントビジネスに関する知見やノウハウの蓄積に乏しく、特に、地方で苦戦している中規模の新規テーマパークを視察する度に、地方には地方にふさわしい地域資源を活用した、住民主体の小規模事業(地域おこし)があるはずだ、という想いを強くしたのである。

この想いが、1994年より移籍する新たな研究所(社会文化研究所)の地方創生の研究で、”コミュニティ・ビジネス(住民主体のスモール・ビジネス)が地域コミュニティを元気にする”という研究テーマとなって、大きく花を咲かすのである。

そして、その後、着工中の日本映画のテーマパークや”峠と鉄道”のテーマパークの事業性評価の仕事が入り、公私ともに忙しくなる。またアトムで有名なプロダクションから自社のテーマパーク構想に関する事業計画書を見て欲しいという連絡が入り、その協力に応じたが、そのテーマパークの着手、完成を見なかったことがしごく残念なことであった。当時景気がわるかったことも一因であるが、テーマパーク事業に着手しないことも選択肢の一つであり、当時としては、社長の熟慮の末の大英断だったかもしれない。


こうした成功率の低い中・大規模なテーマパーク事業が、次に研究着手していった”住民主導のスモールビジネス”である”コミュニティ・ビジネス研究の反面教師”となって、世の中を少しずつ変えていったのである。この30数年前から始めたコミュニティ・ビジネスの研究は、私のライフワークとなり、国内はもとより東アジアの国々からも講演の依頼や出版の話しが舞い込み、古希を迎えようとする今でもその準備に余念がない。

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