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2007年5月

2007年5月29日 (火)

コミュニティ・ビジネスと地域金融

 コミュニティ・ビジネスは、従来の営利追求型ビジネスと異なり、地域社会のネットワークに支えられて成立します。主役は地域コミュニティに生活の場をもつ人々です。地域コミュニティに利害関係や関心を持つ人々が地域事業を営むことによって、雇用が創出され、資金が循環し、地域コミュニティに対する責任感や当事者意識が醸成されるのです。

 コミュニティ・ビジネスを支える人々には、次の4種類があります。

第一には「パトロン(後援者)」です。これらの人々はコミュニティ・ビジネスを物心両面で支援してくれる人です。

第二には「パートナー」です。そこには経営に参画してくれる人が必要です。つまり、経営に関与し、投資や出資をしてくれる人です。

第三には「サポーター」です。サポーターの中には無償ボランティアとして参画する人もいるでしょう。これはいままでの企業社会にはない要素です。

第四に「バンカー(コミュニティ・バンクのバンカー)」がいます。これはいままでの土地とか建物を担保にしてお金を貸すバンクではなく、事業性や地域への貢献度から判断してお金を貸す、本当の意味でのコミュニティのためのバンカーです。21世紀の共生社会では、こうしたコミュニティ・バンクのバンカーが求められることでしょう。もちろん、行政や企業からの協力、協賛や補助金を仲介したり、アドバイスをしたりすることも重要な業務の一つになることでしょう。顔の見える相互扶助の地域経済をつくっていくには、こういうコミュニティ・バンクも必要なのです。

 山梨県には、今でも「頼母子講」が残っています。室町時代から江戸時代まで日本各地の農村には「頼母子講」がありました。「頼母子講」とは、簡単に言えば金融の相互扶助的組織です。組合員が一定の期日に一定金額の掛け金を拠出・プールしてファンドをつくります。そして、くじや入札によって、その資金を貸す人を決めます。ファンドの中から該当者に所定の金額を貸し出します。その人は、期日が経ったらその資金を返します。それを毎回繰り返し、組合員全員にお金が行き渡るまで行うものです。

 しかし、現代に江戸時代の頼母子講をつくるのではなく、いまの時代にふさわしいコミュニティのための資金調達(ファンド・レイジング)の仕組みをどう作っていくのか。欧米ではコミュニティ・バンクのことをクレジット・ユニオンとも言っています。そういう資金規模が小さく、顔の見える関係のコミュニティ・バンクを日本でつくるにはどうしたらよいか。グローバルな嵐の影響が強い日本では難解です。ドイツにはエコ・バンクがありますが、テーマ型コミュニティの中で存在感を示しているそうです。(拙著「みんなが主役のコミュニティ・ビジネス」ぎょうせい 2006 に加筆)。

2007年5月22日 (火)

コミュニティ・ビジネス誕生の秘話

  コミュニティ・ビジネスという言葉の概念を発想したのは、銀行の研究所に勤務していた1990年代初めのころです。当時米国において、高失業率の地域を中心にコミュニティ開発法人(CDC)という地域の住民らによる新しい経済開発の仕組みがあることを知り、今後日本においても、同様な仕組みが求められるであろうと考えました。そして、私がコミュニティ・ビジネスという言葉に意味を込めて、最初に使いはじめたのは1994年からです。当時計画技術研究所の林泰義所長との研究会で意味を膨らませて作っていったものです。コミュニティの中にビジネスの視点を入れて地域社会を再生していく、自分の働き方や暮らし方に主体性を持つ、そんな等身大の生き方に注目していたとき、生まれて来たのがこのコミュニティ・ビジネスという言葉でした。

1995年には、コミュニティ・ビジネスの実践研究をしようということで東京墨田区にフィールドを求め、下町における職住一体のコミュニティ・ビジネスの研究会を立ち上げていきました。特に墨田区は工場主、商店主、職人さんをはじめ多様な人々が暮らし、零細な町工場が多く、住居も工場の2,3階にあるいわば職と住が一体化した住商工混在の町でした。しかし機能的、効率的なニュータウンには無い人間味あふれる等身大の生活感がこの町にはありました。この研究会に参加してもらって以来、協力、パートナー関係にあるのが墨田区の竹村行正氏と(株)計画技術研究所の須永和久氏でした。

1996年に入ると、研究会の中で議論されてきたコミュニティとは何か、またコミュニティを推進する人材はどうしたら育成できるか、こうした問題意識をもとに多摩大学のグレゴリー・クラーク学長、星野克美先生、望月照彦先生をはじめ、多くの先生方とともに「コミュニティ論」、「コミュニティ・ビジネス論」のシンポジウムや公開講座を共催し、1996年から3年間にわたって開講することができました。ここではまちづくり人(黒壁の笹原氏、小布施の人々、延藤先生や真野の人々)、NPO関係者(山岡氏や今田氏、木原氏)など多くの人脈を形成することができました。

1997年には、コミュニティ・ビジネスのこうした一連の活動をさらに広げていこうとする気運が盛り上がり、コミュニティ・ビジネス・ネットワーク設立準備会という市民団体を同年3月30日に墨田区錦糸町で設立することができました。100人に及ぶ同士が参集し、コミュニティ・ビジネスの夢は広がっていきました。この時からの仲間が松澤淳子氏や齋藤主税氏でした。このコミュニティ・ビジネス・ネットワーク設立準備会は当初、私が所属するヒューマンルネッサンス研究所内に本部を置いていましたが、地域密着でコミュニティ・ビジネスの起業支援をしようということになり、1998年2月に竹村氏が代表を務める(有)すみだリバーサイドネットと共同で事務所を墨田区両国駅前に設置することとなりました。共同開発による現場密着のコミュニティ・ビジネス起業支援は、さまざまな支援プログラムを現場で生むことができました。また、多くの地域住民の協力や学生ボランティアの参加を得ることができました。このボランティア活動に参加してくれたのが今回の執筆陣の一人・木村政希氏です。

そして2000年7月にコミュニティ・ビジネス・ネットワークは、今まで名称にあった設立準備会を外し、会員主体による市民団体として完全に一人立ちすることになりました。私は、理事長兼事務局長に就任し、その後、大成建設の鵜飼修氏と知り合い、2001年夏から鵜飼氏に事務局長をお願いして、現在に至っています。鵜飼氏とは、「テーマコミュニティの森」「コミュニティ・ビジネス起業マニュアル」(ぎょうせい)などを共に著し、また事務局長として支えて貰っています。(へっぽこ先生のもう一つの顔から)

 

2007年5月20日 (日)

二代目へっぽこ先生の登場

 二足のわらじを履く、二代目のへっぽこ先生がコミュニティビジネス総合研究所所長の細内所長である。

 

 初代のへっぽこ先生は、旧制宇都宮中学の英語教師。かって細内所長の実家と同じ町内会に住んでいた先輩*だ。教師になる前に米国へ旅行し、現地で工員などいろいろな職業を経験したそうだ。最初、教員資格を持っていなかったので、へっぽこ先生と自ら呼んでいたらしい。へっぽこ先生の名は『川上澄生』、文明開化や南蛮風の木版画を得意とし、私家版の本、ガラス絵なども多数残した。当時へっぽこ先生は中学教員と版画家という二足のわらじを履いていた。いまでこそ、へっぽこ先生の版画は全国的にも有名だが、当時周りの人の目には彼の趣味の世界としか映らなかったようだ。版画一本で食べていくのが困難な時代であった。あの棟方志功(澄生の版画を見て「ハット」して木版画家に転進)でさえ、マッチ箱のラベル絵をつくることで生活費を捻出していたそうだ。

 

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筆者蔵「ゑげれすいろは人物」版画荘、1935年より

 

 細内所長も今ではまちづくりやコミュニティ・ビジネスのお話しをするまちづくり伝道師(ここ10年間で講演、ワークショップはすでに1,000回を越えた)として全国各地を行脚している。かつ週3日出講の7コマを担当する女子短期大学の客員教授(現在、本人は、新たに四年生大学、もしくは大学院の客員教授先を募集中)であり、女性起業論、コミュニティ・ビジネスⅠ、コミュニティ・ビジネスⅡ、NPO経営論、店舗経営(ショップ・マネジメント)、店舗企画(ショップ・プランニング、細内ゼミ)などの実務を教えている。また非営利団体の代表として行政の委員会に出るなど、毎日東奔西走している。

 

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 埼玉女子短大細内ゼミの学生

 

 今回の一連の旅日記ブログは、二代目へっぽこ先生のそうした全国各地における講演活動や現地での視察を通して見聞きしてきた旅の研究日誌である。

 

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ある自治体におけるCBセミナーのワンシーン

 

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もっと知りたい方は、http://www.hosouchi.com/ をクリック!

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(拙著「みんなが主役のコミュニティ・ビジネス」ぎょうせい 2006年に加筆して作成)

 

☆彡

 

今に生きる三方よしの精神

 2年近く前、滋賀県栗東市の女性起業家を訪問した帰路のこと、お隣の近江八幡市に立ち寄った。近江八幡さんで有名な日牟礼八幡 (ひむれはちまん)があり、近江商人の厚い信仰を集めてきた。へっぽこ先生、寄り道をしてJR近江八幡駅前に降り立った。近江八幡駅はどこにでもある地方都市の駅前とあまり代わりばえしない。むしろ観光案内はすぐに見あたらず、人影も少なく商売気のない町のように見えた。近江商人は途絶えてしまったのか。そんな八幡さんまでそっけない一本道の町並みをテクテクと20分ほど歩いただろうか、初夏のこともあり汗びっしょりであった。旧市街の日牟礼八幡まで住宅が並ぶだけでほんと何もない町である。途中コンビニと総合スーパーを一軒ずつ見かけただけである。ところが八幡さんの両脇には和菓子屋と洋菓子屋があり、疲労回復に店内で涼んでいると店員さんが椅子のある場所に誘導してくれた。店内は観光客で大盛況である。いま流行りのパテシエがところせましと動き回っている。へっぽこ先生もやっと元気が出てきてバームクーへンを購入し帰り支度をした。しかし駅からここに来るまでの30分を考えると、帰りはクーラーの効いたタクシーにしたい。店員さんにタクシーを呼んでもらい、しばらく店で待機した。店員さんの対応もよく、気分よく帰れそうだ。間もなくタクシーが来て店員に見送られて乗り込んだ。ここまではよくある話しだ。ことは降りるときに起きた。ドライバーさんが料金を取らないのである。日牟礼八幡さんのお隣にある洋菓子屋さんからもらっているから結構ですというのである。そこに現代の近江商人を見た。損して得(徳)取れの精神、三方よし(客よし、店よし、世間よし)の精神、現代の近江商人の心意気を垣間見た気がしたのである。今回お店は商品を購入してもらい(お車代を負担し)、へっぽこ先生はおもてなしのサービスを受けて満足し、タクシードライバー(世間)さんには仕事が生まれた。まさに三方よしの精神である。(拙著「みんなが主役のコミュニティ・ビジネス」ぎょうせい 2006年 に加筆して作成)

2007年5月14日 (月)

尾張名古屋は人でもつ

 2006年実績でトヨタが世界一の自動車メーカーになったそうだ。へっぽこ先生、2005年度「名古屋の将来を語る懇談会」のメンバーに名古屋市より任命された。何を議論したかというと、25年後の名古屋を見越す議論を展開した。時代の先読みをする各界の有識者を各地から召集したそうだ。勝ち組の名古屋は25年先を見据えてもう先読みをしている。勝っている(地域力がある)からこそ、将来が見えてくるものだ。名古屋を広域的に見れば愛知県であり、昔の尾張・三河地方にあたる。いまでも尾張名古屋は城でもつと言われるが、愛知県は人でもつ気風に溢れている。

 実はこのこと今に始まったことではない。武家社会を構築した源頼朝(河内源氏)は熱田神宮の生まれ、信長、秀吉、家康の戦国勝ち抜き3人衆も今風にいえば愛知県人、その後の豊田佐吉(子供の頃、偉人伝をたくさん読むとよい)(生まれは静岡、名古屋で活躍)も機を織る母の苦労から自動織機を発明し、その織機(ハタ)屋から世界のクルマメーカー・トヨタが生まれている。時代の先を読む天才・奇才が愛知県、名古屋地方から多数誕生している。かくして尾張名古屋はヤマトタケルの古来から人でもつのである。そして名古屋は日本のパワーの源である。(拙著「みんなが主役のCB」ぎょうせいに加筆)。

2007年5月 9日 (水)

国の成長力と兄弟数について

 国の成長力を示す指標になにがあるのか。このテーマの設定には、講演先で各地の中心市街地や過疎地での衰退を見て思いついたことだが、一つには子供の兄弟数があるだろう。

 へっぽこ先生は50歳で3人兄弟、その両親の兄弟は各6人兄弟、祖父母の兄弟は6人~11人と明治維新以来、わが国は富国強兵の国策に基づいて産めよ増やせよと人財を増やしてきた。その時代背景には、祖父母の生まれた時は日清・日露という国家戦争の時代、父母の時は世界恐慌の時代、へっぽこ先生の時代はもはや戦後でないという復興成長への時代と各時代ごとに国家目標があった。

 へっぽこ先生の子供の時代は、1人っ子ないし2人兄弟の少子化時代である。兄弟数を国の成長力という視点に置き換えてみると、今後、わが国の成長力は衰えざるをえないだろう。子供を増やすという国家戦略に大義が見えない現況では、国の成長力に期待が持てない。よって、わが国は高齢者ばかりで地域に子供がいないという一層深刻な地域社会を多数抱えることになるだろう(5月8、9日とも拙著「みんなが主役のコミュニティ・ビジネス」ぎょうせいに加筆)。

2007年5月 8日 (火)

旅の研究日誌 いま女性起業が旬

女性起業の比較的高い地域(県)は、たしか青森、岩手、徳島(No.1)、高知と記憶している。

 

いずれもへっぽこ先生、コミュニティ・ビジネスの講演でおじゃました県であるが、講演会場で接した女性たちの印象からすると離婚後シングルマザーでがんばっている女性が少なくない。もちろん連れあいの支援を得て起業する女性もたくさんいる。

 

女性起業家たちは、総じて働く意欲が旺盛で他人に依存しない。独立心が強く、頼もしい存在である。男性よりもむしろ女性の方がコミュニティ・ビジネスには向いている。女性の方が地域の生活課題がよく見える。しかも地域の問題を自らのビジネスにして、取り組む姿勢は立派である。

 

かくして上述の県は昔から女性の働く場が地域にあるなど、その特色ある風土とあいまって女性起業家の存在が他県より高い地域となっているのである。

☆札幌商工会議所での講演を終えて北海道大学クラーク像前にて

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