コミュニティ・ビジネス誕生の秘話
コミュニティ・ビジネスという言葉の概念を発想したのは、銀行の研究所に勤務していた1990年代初めのころです。当時米国において、高失業率の地域を中心にコミュニティ開発法人(CDC)という地域の住民らによる新しい経済開発の仕組みがあることを知り、今後日本においても、同様な仕組みが求められるであろうと考えました。そして、私がコミュニティ・ビジネスという言葉に意味を込めて、最初に使いはじめたのは1994年からです。当時計画技術研究所の林泰義所長との研究会で意味を膨らませて作っていったものです。コミュニティの中にビジネスの視点を入れて地域社会を再生していく、自分の働き方や暮らし方に主体性を持つ、そんな等身大の生き方に注目していたとき、生まれて来たのがこのコミュニティ・ビジネスという言葉でした。
1995年には、コミュニティ・ビジネスの実践研究をしようということで東京墨田区にフィールドを求め、下町における職住一体のコミュニティ・ビジネスの研究会を立ち上げていきました。特に墨田区は工場主、商店主、職人さんをはじめ多様な人々が暮らし、零細な町工場が多く、住居も工場の2,3階にあるいわば職と住が一体化した住商工混在の町でした。しかし機能的、効率的なニュータウンには無い人間味あふれる等身大の生活感がこの町にはありました。この研究会に参加してもらって以来、協力、パートナー関係にあるのが墨田区の竹村行正氏と(株)計画技術研究所の須永和久氏でした。
1996年に入ると、研究会の中で議論されてきたコミュニティとは何か、またコミュニティを推進する人材はどうしたら育成できるか、こうした問題意識をもとに多摩大学のグレゴリー・クラーク学長、星野克美先生、望月照彦先生をはじめ、多くの先生方とともに「コミュニティ論」、「コミュニティ・ビジネス論」のシンポジウムや公開講座を共催し、1996年から3年間にわたって開講することができました。ここではまちづくり人(黒壁の笹原氏、小布施の人々、延藤先生や真野の人々)、NPO関係者(山岡氏や今田氏、木原氏)など多くの人脈を形成することができました。
1997年には、コミュニティ・ビジネスのこうした一連の活動をさらに広げていこうとする気運が盛り上がり、コミュニティ・ビジネス・ネットワーク設立準備会という市民団体を同年3月30日に墨田区錦糸町で設立することができました。100人に及ぶ同士が参集し、コミュニティ・ビジネスの夢は広がっていきました。この時からの仲間が松澤淳子氏や齋藤主税氏でした。このコミュニティ・ビジネス・ネットワーク設立準備会は当初、私が所属するヒューマンルネッサンス研究所内に本部を置いていましたが、地域密着でコミュニティ・ビジネスの起業支援をしようということになり、1998年2月に竹村氏が代表を務める(有)すみだリバーサイドネットと共同で事務所を墨田区両国駅前に設置することとなりました。共同開発による現場密着のコミュニティ・ビジネス起業支援は、さまざまな支援プログラムを現場で生むことができました。また、多くの地域住民の協力や学生ボランティアの参加を得ることができました。このボランティア活動に参加してくれたのが今回の執筆陣の一人・木村政希氏です。
そして2000年7月にコミュニティ・ビジネス・ネットワークは、今まで名称にあった設立準備会を外し、会員主体による市民団体として完全に一人立ちすることになりました。私は、理事長兼事務局長に就任し、その後、大成建設の鵜飼修氏と知り合い、2001年夏から鵜飼氏に事務局長をお願いして、現在に至っています。鵜飼氏とは、「テーマコミュニティの森」「コミュニティ・ビジネス起業マニュアル」(ぎょうせい)などを共に著し、また事務局長として支えて貰っています。(へっぽこ先生のもう一つの顔から)
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