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2007年9月

2007年9月26日 (水)

新街道を行く(10)ご縁は大切にしなければなりません

 先日仕事の関係で大分県の日田市に入りましたが、歴史的建造物の保存で有名な豆田地区は、車が保存地区の中まで、びゅんびゅんと入り、少し興ざめでした。正直観光気分になれなかったのが残念です。町の品格とは、こうしたところに表れるものですね。しかし一部の地域住民の方にはやさしく対応していただきました。

 そこで豆田地区にある日田土鈴の東光堂さんに入りましたが、驚いたことに先日訪れた広島県福山市の「鞆の浦」の喫茶店・深津屋さんにあったものと同じ吉四六さんの土鈴がおいてありました。びっくりしてお店の奥さんに聞いてみますと、ここで作製し、ご主人が全国に売りに歩いているそうです。

 鞆の浦の深津屋さんへも卸しているとのことでした。ご主人は四国から今ごろ鞆の浦を回っているはずですとのこと。両方とも所長がたまたま立ち寄ったお店ですが、ここで鞆の浦の喫茶店・深津屋さんとつながるとは思いもよりませんでした。吉四六さんの土鈴は、卸しているお店によって、ご主人が作りわけをしているそうです。手作りの作品には暖かみがあって心が和みます。所長は土鈴の狸と蛙、そして卵のレプリカを購入し、講演のため福岡県のうきは市にもどりました。

 世の中って狭いですね。そして不思議なものですね。所長が介在することで日田市の土鈴屋さんと鞆の浦の喫茶店さんがつながりました。ご縁は大切にしなければなりませんね。

2007年9月23日 (日)

新街道を行く(9)僕は知的フーテンの寅次郎だ

 先週の細内所長は、福岡県うきは市の浮羽商工会、吉井商工会から招かれ、講演に行ってきました。一度台風で流れましたので、今度こそという思いがありました。

 講演前に、市内にある珍敷塚(めずらしずか)古墳の装飾壁画を見せていただきました。赤いベンガラで描かれた帆船と鳥の絵は、先日テレビで見たエジプトの壁画とそっくりでした。これでアジアがつながっていることを実感しました。エジプトから中国、朝鮮半島を経由して北部九州まで伝播しているのでしょうか。この地はさらに月岡古墳という有名な古墳があり、騎馬武者の兜や武具が多数出てきました。出土品がまちの資料館にありましたが、これらも朝鮮半島にて同じものが出土しているそうです。弥生、古墳時代のご当地にはたいへんな実力者がいたのでしょうか。耳納山地の筑後川沿いには、かって大小1千基を越える古墳があったそうですが、盗掘やその後の開墾で原型を留めている古墳は少ないそうです。うきは市は邪馬台国の探究者には羨望の地でもありました。

 ご当地は、いま田園地帯で、葡萄、梨、柿、イチゴなどフルーツの美味しい土地柄です。高速道路を使えば博多から50分ほどの立地です。家族連れの行楽客には手ごろな遊び場でしょうか。近くには、観光農園、道の駅、農家民宿、そして白壁の町並み、屋形古墳群、彼岸花溢れる棚田、さらにはラジウム温泉もあり、久しぶりに盛りだくさんのことを体験し、面白い旅でした。うきは市のみなさん、お世話になりました。

 この暑い夏の1ヶ月間は、愛媛(松山、大洲、八幡浜、佐田岬、伊方)、広島(廿日市、広島、世羅、福山、鞆の浦)、岡山(笠岡)、埼玉(秩父、日高)、福岡(博多、うきは)、大分(日田)を講演、ワークショップなどでかけめぐり、30日のうち宿泊が20日に達し、のべ28日間稼動の新記録達成でした。所長に対し、どなたかが言っていましたが、最近まさに「知的フーテンの寅さん」になってきました。

 山田洋次監督、これをモチーフにもう一度「知的フーテンの寅さん、新街道を行く」の映画をつくりませんか!

閑話休題

福岡空港で飛行機待ちをしているとき、元キャンディーズの田中好子さんがお隣におりました。マネジャー2人が脇を固めていましたのでお話しできませんでした。小生と同じ年ですが相変わらず綺麗な方でした。キャンディーズは所長の高校時代のアイドルでした。

広島駅では新幹線を降りるとき、赤井英和さんとすれ違いました。もう少しでぶつかりそうになりました。背格好は所長と同じですが、元ボクサーの赤井英和さんは強そうでした。

2007年9月19日 (水)

新街道を行く(8)自然の営みに合わせることも必要

 今回、念願の広島県福山市の”鞆の浦”に行ってきました。福山市には講演やワークショップでたびたび訪れていましたが、鞆の浦まで足を運ぶ時間が作れなくて、たいへん苦慮しました。今回やっとその夢が実現しました。

 鞆の浦は、瀬戸内海の潮待ち港、古代から江戸期まで交易で栄えた港町。古代の魏志倭人伝では、邪馬台国へ向かう途中にある投馬国(トウマ)の港では?とも言われています。また中世の鞆の浦は、室町幕府初代将軍足利尊氏が九州から勢力を盛り返した拠点、そして時代は経過しますが、織田信長に追われた15代将軍の足利義昭が室町幕府を閉じたところでもあります。鞆の浦はそうした時代を見据えた歴史の結節点です。

 そんな鞆の浦を眺めながら、のんびりと丘の上で考えたことは、現代の鞆の浦で”潮待ち船”を再現してもよいのではないでしょうか。日本のなかに、あえて現代文明を使わないところがあってもいいはずです。子どもたちや疲れた大人たちに、潮待ち船のような自然の摂理を見せる場所として、鞆の浦は格好なところではないでしょうか。長い人生、潮の満ち引きのように、立ち止まって自然の営みに合わせることも時には必要でないでしょうか。

 新幹線や高速道路、飛行場が通じる機能的な都市や町が、必ずしも人間を幸せにするとはいえないからです。鞆の浦は、のんびりとした大陸的な風水を感じさせる不思議なところでした。

 

 

新街道を行く(7)世界に通用する感性都市

  椿は、わが国を代表する花のひとつです。かの聖徳太子も歌に詠んでいます。桜と並んでわが国の”国花”といっても言いすぎではないでしょうか。今回の松山滞在で目に付いたものの中に、椿神社、椿小学校、椿中学校、道後温泉の椿の湯と、松山市内にはその”椿の名”がたくさんあります。市の花にも”椿”が指定されています。欧州でもわが国から輸出された”椿”が有名だそうです。かの地では、オペラなどの題材にもなっています。

 「日本の女性は美しい」と、資生堂も新商品に「TSUBAKI」を使っています。ジャパン・ビュティは、そんな身近なところにあるものなんですね。「花椿」から「TSUBAKI」へ、資生堂は見事に意味情報の復活を果たしました。かの企業は、感性の時代をリードする企業のひとつでしょうか。

 花は人々の心を和ませてくれます。そして故人を想うには、そうした花々の中がよいのでしょうか。フラワーパークや観光農園などが、いまや人々がたくさん押し寄せる場所となりました。花いっぱいの感性空間に浸りたいのは、そこが現代人の癒しの場だからでしょう。

 地方都市も感性をどう表現するかで”世界に通用する観光都市”に変貌できるかどうか、という時代に入りました。今年松山市には「坂の上の雲ミュージアム」と「伊丹十三記念館」が完成し、世界に通用する感性都市を目指しているように感じました。夏目漱石や正岡子規の肩の上に何を乗せるかが、今後の松山の課題でしょうか。

 

新街道を行く(6)観光農園銀座を行く

 今回視察した広島県世羅町の観光農園は町内に5箇所もあり、観光農園のパワーセンター化しています。花いっぱい、感性のまちづくりでしょうか。パチンコ屋も1軒より5軒集中してある方が、集客力がつくのと同じ理論です。

 ある観光農園の入場料は一人700円でしたが、年間10万人の集客があるそうです。お土産品や飲食の販売を含めると売上高はなんと1億円前後になるそうです。見せるための花卉栽培であり、感性訴求で各農園とも花の種類の棲み分けをして、集客の工夫をしています。最近こうした観光農園やフラワーパークが花盛りですが、経営方法などさまざまな工夫をしているのも事実です。花卉そのものは販売せず、時季に即した花卉を季節ごとに回転させ、さらに見せるための工夫、感性訴求の方法などが、その一部です。

 しかし、こうした観光農園もほとんどが山間地にあり、車がないと訪れることは困難です。しかも高速道路のインターが近くに接続されているかどうかが、事業成否の分かれ目です。

閑話休題

埼玉県日高市の「高麗の里、巾着田の彼岸花」はいまが盛りでしょうか。この時季100万本の赤い花は圧巻です。この時季だけで40万人近くの日帰り客が訪れ、平日でも1日100台近い観光バスが関東各県から来るそうです。入場料200円もかかり、すっかり観光地化してしまいました。

2007年9月18日 (火)

新街道を行く(5)地方は高速道路が生命線

 先週は講演で広島県を訪れました。広島市から世羅町に入り農業の視察をしてきました。案内していただいた世羅町のところどころには、小高い山と山の間に高速道路の橋が架かっていましたが、その長さは500メートル、いや800メートルはあるでしょうか。尾道から日本海の松江まで結ばれる高速道路の橋脚だそうです。ただいま建設中ということで鉄骨の一部がむき出しになっています。これが完成すると尾道-松江間が約2時間で結ばれるそうです。瀬戸内海と日本海がたったの2時間で行き来できてしまいます。夢のようなことです。

 広島県尾道-愛媛県松山間には、すでに”しまなみ街道”として高速道路が瀬戸内海の島々を結んでいますので、こちらも移動は2時間です。また愛媛県内は、松山から宇和島まで高速道路を使えば、2時間ですから、もし松松(松江ー松山を結ぶ)高速がつながれば、宇和島-松山-尾道-松江ルートはおよそ6時間で結ばれてしまいます。これでは既存の宿泊型の観光地が大激変することでしょう。そして、これからは日帰り型観光の全盛時代を迎えることでしょう。

 これにより経済圏の形成も大きく変容することでしょう。日々変化を見極める眼を養うことが大切な時機、時代となりました。

2007年9月17日 (月)

新街道を行く(4)地域間格差に取り組む

 八幡浜市は、かつて海運業や漁業で栄えた町あり、西日本の大坂といわれたそうですが、今はその面影もないくらい衰退しています。漁業の衰退は特にひどく、湾内にはトロール船が1隻しか係留されていませんでした。盛んなときは、50隻以上が港に係留され、漁の解禁日には大漁旗を一斉になびかせて船出していったそうです。昨今の油の高騰ばかりでなく、水温の上昇で魚が取れなくなったことも一因でしょうか。

 また八幡浜市は、高速道路が県都の松山から接続されておらず、手前の大洲インターで降り、一般道を進むしかありません。地方都市では、こうした高速道路、新幹線、飛行場などとの接続が地域経済の成否に与える影響は大であり、大企業も工場進出の有無を計るとき、こうした立地を調査しています。

 現在、八幡浜市の人口は4万人あまりです。細内所長がかつて住んでいた川崎市多摩区の菅(すげ)町内会(人口規模が日本一の町内会です)の人口とあまりかわりません。都会には人が集まり過ぎています。どこの地方都市もそうですが、他所から観光客などを呼び込んで新しい市場(マーケット)を創造(活性化)することが、今後の課題解決の一つでしょうか。

 今回そうした課題に取り組むため、コミュニティ・ビジネスによる起業ワークショップを八幡浜市で開催しましたが、子育て後の女性に元気があり、水産物の加工やミカンを活用したコミュニティ・ビジネス事業企画案が出てきました。このことは、まだまだ頑張れるということの証でしょうか。コミュニティ・ビジネスは浸透までに3年から5年と時間がかかりますが、こうした小さな種を大切に育てていくことが重要です。今後行政支援もこうしたことに継続して取り組まれることが肝要でしょう。地域住民が起こす地域密着型の起業(ビジネス)は、地域に雇用を生み出す、地方自立の第一歩だからです。コミュニティ・ビジネスは地域コミュニティの衰退を食い止め、地域間格差を解決する方法の一つでもあるからです。

2007年9月 9日 (日)

新街道を行く(3)日帰り型観光へ一大決心

 現地で聞いたお話ですが、最近道後温泉の宿泊客が減っているそうです。原因はいろいろあるかもしれませんが、ひとつには、しまなみ街道(瀬戸内海の島々を橋で結ぶ高速道路)により広島県とつながったことが考えられます。このことは日帰り客が増えたか、もしくはその先の高知や徳島まで足を進めたことによるものでしょう。

 同じように新幹線でもいえます。長野新幹線により従来の宿泊型の観光地は大幅に客数を減らしました。東京からの日帰りが可能になったためです。橋や道路や新幹線が必ずしも地域振興につながらないケースでしょうか。昨日秩父市で講演をしましたが、秩父でも最近宿泊客が減っているそうです。いかに宿泊型の観光地から日帰り型の観光地に気持ち(事業)を切り替えるか、この一大決心がたいへん重要なのです。特に宿泊型観光の成功経験があるところは、今の観光客のニーズについていけないのでしょう。

 いま日帰り型観光地で大成功しているところに川越市があります。小江戸・蔵の街・川越は、都心から1時間ほどですがいまや年間400万人もくる町です。ほとんどが手ごろな旅を求める日帰り客です。その一大決心の例にこんなことがありました。町のシンボルの前に魚屋さんがありました。ご近所の方を相手にする町の魚屋さんです。しかし日中観光客がひっきりなしに通るので一大決心をし、その観光客相手に刺身定食屋をはじめました。それからお店は大繁盛したとのことです。かつての宿泊型の観光地では、この一大決心をすることがなかなか難しいことなのです。

新街道を行く(2)伊丹記念館は楽しい

 今回の伊予の旅では、今年開館したばかりの伊丹十三記念館を訪れました。こちらは東京テイストのホスピタリティで、スタッフが素敵なおもてなしをしてくれました。黒のテイストで統一された建物の外装は、坂の上の雲記念館とは好対照で”チョイ悪オヤジの館”とでもいうべきものでしょうか。展示にも個性があり何が出てくるかワクワクしました。

 細内所長は、1978年、今から30年前、伊丹さんに長野県の上田駅でお会いし、一緒に写真に納まりました。それ以来の伊丹贔屓です。奥さんの宮本信子さんも大好きな女優さんの一人です。お似合いのご夫婦でした。

 今回の伊丹記念館の企画は奇抜でした。まず入り口では、宮本信子館長の”ご挨拶ビデオ”でした。彼女の映像は、お顔が鮮明にでますので、彼女の人生経験の数だけ ”おしわ”が発見されました。そして圧巻は”お葬式の祭壇”の展示でした。伊丹監督の”お葬式”のロケ現場再現でしたが、祭壇には少しドキっとしました。伊丹(宮本)流らしい演出でしょうか。

 これは私見ですが、ここ5年くらい毎年松山に来ていますが、生活のリズムとでもいうべき”テンポ”ですが、東京のテンポと微妙にずれているのが松山のテンポです。夏目漱石は、この松山のテンポにあわず、坊ちゃんという人物に自分を投射して表現したのでしょうか。江戸っ子には、松山のテンポが少しじれったく感じるのでしょう。

 そしてもう一つ、今回の訪問で発見したことは、伊丹十三自身が”現代の坊ちゃん”だったことでした。彼は京都生まれで、父親は有名な映画監督、父親の死にともない父の郷里松山で少年時代を過ごしますが、松山の高校時代の記念写真にはみんなが制服のなか、彼一人だけが私服で写っています。彼の人生遍歴から直感的にそう感じました。現代の坊ちゃんは伊丹十三だったのです。そう感じさせる伊丹十三記念館でした。

2007年9月 4日 (火)

細内所長の新街道を行く(1)

 お盆明け、講演・ワークショップの仕事で愛媛県(伊予の国)に長期滞在していました。一昨日、無事終了し、帰京しました。愛媛県でも特に中予と南予といわれる地域、都市で言うならば松山市、大洲市、八幡浜市でコミュニティ・ビジネス(CB)の講演・ワークショップをしてきました。途中で司馬遼太郎の「坂の上の雲ミュージアム」を視察してきましたので、今回の旅日記は「街道を行く」調でまとめたいと思います。

細内所長の 新街道を行く:大洲の町の3層構造論

 大洲市は、秀吉配下の七本槍で有名な加藤家の城下町ですが、市街地の形成がたいへんハッキリしている全国でも珍しいケースではないでしょうか。

 第一層は、肱川から南側のお城から大洲神社にかけて城下町が形成され、古い街並みが小京都の趣を醸しだしています。木造商家のほか、明治時代の赤レンガの建物も時代をタイムスリップしてくれます。そんな風情がただよいます。

  第二層は、肱川を挟んで北側からJRの伊予大洲駅までが新市街地でしょうか。鉄道がかつて主役の時の街並みです。城下町の外れに駅が設置されました。その一角に殿町という地名が残るように近代日本で財を成した新興勢力が料亭で川遊びをした様子が伺い知れます。東京で言えば、隅田川を挟んだ川向こうの”向島”でしょうか。

  第三層は、上記市街地を避けるために開通したバイパス通りですが、ここに高速道路のインターチェンジが接続され、田圃沿いのバイパス道路に郊外型の大型店舗が多数配置され、一つの商店街とでもいうべき新町が形成されています。わが国のトヨタが世界一の自動車メーカーになるくらいですから、この街並み設計は現代の車社会を象徴しています。

 わが国の地方都市では、時代の移ろいとともに、上記の3層構造で町が形成されてきましたが、大洲市ほど、この3層構造がハッキリしているところはそう多くはありません。ですから町のパワーは、いまこの第3層目から発信され、人々も自動車で駆けつけ、多くの人々で賑わっています。それに対し、第2層の中心地であったJR駅前に活気がないのは、どこの都市も同じ悩みではないでしょうか。

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