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2009年4月

2009年4月29日 (水)

幸せを呼ぶドクターズ・コレクション

 ホソウチ所長は、一昨日水戸の茨城NPOセンターで社会起業家、社会的企業についてお話をしてきた(1997年、1998年、2003年と英国、米国の社会起業家たちと交流してきた)。

 行きのスーパーひたちの車窓からは、ハス田での作業風景、トラクターでの田植え風景が次々と過ぎ去っていった。そして紫峰筑波山は何度見てもいい。M字型の山容は牛の爪をついイメージしてしまう。

 昨日は、帰りの電車まで少し時間があったので茨城県近代美術館へ行ってきた。

 一人のコレクターが集めた300点近い版画の展示であった。特に圧巻は木版画家清宮質文の作品を30年をかけてコツコツと蒐集してきたコレクションであった。

 清宮質文の木版画は、神田神保町の版画屋で何点か拝見してきたが、初期の作品も含め、これだけのコレクションは見たことがない。たいへん見ごたえのある展覧会だ。予定の時間より特急電車を1本遅らせて鑑賞してしまった。

 さてこれだけのコレクションだが茨城県内に在住する一人のドクターが寄贈してこの展覧会が生まれたそうだ。わが国の生活文化は豊かになった。一個人がこれだけの質と量の木版画を収集できるのだから。

 昨年末講演で訪れた愛知県岡崎市にもドクターズ・コレクションがあった。ジャズレコードのコレクション(内田コレクションという)が新しくできた公共施設内に常設展示(音源が聞ける)されていた。わが国のジャズの歴史と度々ご当地を訪れていたジャズメンたち、ドクターや市民との交流の場面場面を展示していた。

 一市民が蒐集してきたこうした作品を公共施設に寄贈することは、たいへんよいことだ。小生も先人を見習いたいものだ。

 豊かだからこそ、こうして寄贈もできる。しかし、それを地域社会に還元することでさらに周りの人々をも幸せにすることができる。

2009年4月28日 (火)

夏が来れば思い出す、アロハ姿のサーファー課長

 夏が来れば思い出す、はるかな富士、遠い空。

関東で一番早く”海開きをするまち”をみなさんご存知だろうか。

ホソウチ所長が仕事でお付き合いしていたその町の観光課長は知る人ぞ知る”サーファー課長”である。

”役得”なのか、それとも”波乗り”と言う”一芸に秀でている”のか。とにかく彼はかっこよく”モテル”のだ。

海開きの時季になると彼は”アロハシャツ”を着て庁舎内を闊歩する。

一年中、彼の顔は”真っ黒”で知らない人が見れば明らかに”プロサーファー”である。

サーファー課長は、今年もアロハ姿で”岡サーファー”に徹し、自分のまちをPRするのだろうか?

今年も遥かに”富士”を望みながら湘南に夏が来る。

2009年4月27日 (月)

親の介護を考える

 私事だが母を亡くして3年になる

 最後はホスピスで静かに息をひきとった。亡くなる日の当日、所長には基調講演とシンポジウム・コーディネーターの仕事があり、危篤の中で仕事場に出かけて行った。”親の死に目には会えない”とはこのことか、と思って仕事場に向った。

 大学病院から”ホスピス”への転院ため救急車に同乗し、”がん難民”とはこのことか、と実感した。

 北関東にある大学病院には”原則3ヶ月”しかいられなく、どこでもそうだが治癒の見込みのない病人には”容赦なく転院”を迫った。病院探しは家族にとって大変な負担である。

 東京から北関東の大学病院まで、発病後の8ヶ月間で67回も通った。仕事をしながらの見舞い・介護はまわりの家族に大きな負担がかかる。

 ちょうどいま、芸能人の親の介護疲れの話しが隣りのテレビから流れている。

親の介護はけして他人事ではない。

 私も、もしあのままの状態が続いていたら、1年ももたなかっただろう。

2009年4月26日 (日)

高速料金がはたしてどうなるか?目が離せない今日この頃である

 当方のクルマに遅ればせながらETCが付いた。本日、新宿にあるわがCB総研まで、中央フリーウェイは休日ながら快適であった。 

 思い起こせば1994年、いまから15年前にヨーロッパのスイス、オーストリアを走ったとき、すでにETCが使われていた。わが国もやっと庶民レベルまでETCが普及しそうな勢いである。

 少し遅すぎた感もあるが、いままで高速料金が高かったのが遅れた原因の一つであろう。今日の走りでは、八割方がマイカーであった様に感じた。今回の麻生施策で高速料金が休日に少し安くなったのでマイカーが増え、一方不景気で営業車は動くのを自粛しているようだ。しかし平日よりも交通量が少ないのが少し気がかりだ。

 この休日料金が2年後はたしてどうなるか?

目が離せない今日この頃である。

2009年4月25日 (土)

道路も橋も大切だが、まちの文化資源の復活・再生も大切だ

 ホソウチ所長の知人に映画関係者が少なくない。仕事では、さる映画会社のある事業計画を分析し、アドバイスをしたこともある。大学時代は映画研究会に属したこともある。

 所長は仕事で全国各地に出かけるが、まちの文化の殿堂であった古い映画館が閉鎖されたまま、現在空き家になっているケースが少なくない。そして同じようなケースにまちの社交場であった銭湯がある。

 しかし映画館は再びSCの中で陽の目を見、シネマコンプレックスとして復活している。一方銭湯も最近の温泉ブームに乗って、スーパー銭湯として全国各地のロードサイドに誕生している。

 映画館の事業成立には、古いタイプの映画館(五感を刺激するアナログ的な雰囲気がよい)では相当な努力が必要とされる。そして閉鎖されたかってのまちの顔を再び復活させよとがんばっているオールドフアンも、宮古、新潟、深谷、川越、尾道、飯塚と全国各地でがんばっている。

 最近ではその経営母体としてNPO法人をつくり、支援者を募り、何とか採算を合わせているところが少なくない。しかし付帯事業をつくらないと経営は苦しい。

 いまNHKの朝ドラ「つばさ」でコミュニティFM局づくりがストリーになっているが、コミュニティFM局も単独事業としては苦しい経営状況だ。いっそのことこうした映画館とコミュニティFM局の融合した文化融合事業に国も積極的に支援したらどうだろうか。道路も橋も大切だがこうした大衆文化の地域資源(映画館や銭湯など)の復活・再生も大切だ。コミュニティ・ビジネスの視点でまちづくりの一環として取り組んだらどうだろうか。

2009年4月22日 (水)

忘れられた誕生日

先日友人とビジネスランチをした。

彼のぼやきを紹介しよう。

 人生の半分を消化するとだれもが歳をとりたくないものである。彼は自分の誕生日を大手航空会社2社からのメールで知ったとのこと。記憶をたどるとカード会社には生年月日を申告する。その関係からか、祝福のメールが届いたらしい。

 しかし彼曰く、「周りの人間から誕生日を祝福されるのは嬉しい。しかし歳を重ねているからといってまったく無関心では寂しい、ましてやパソコンから祝福されてもたいして嬉しくはない」とぼやいていた。職場でもそうであったらしい。ちなみに彼は独身である。

 都会では隣人に対して無関心である。おじさんの歳などかまっていられない。都会の生活スピードは速い。自分の都合でそのときだけ関与して欲しいといってもあとの祭りである。

最近の”婚活”はその辺のことを考慮してパートナーを選ばないと、悲劇を繰り返すだけだ。

2009年4月21日 (火)

ニュータウンの一角に均質的なコミュニティの特質を見る

 今日は久しぶりに早起きして散歩に出かけた(花粉症で散歩を控えていた)。

 ニュータウンの一角にある駅前に行き、お隣の駅まで行くためにプラットホームに上がり、そして驚いた。

 プラットホームにカラスの大群が行列をつくり、鈴なりに見えた。いや所長の見間違いだった。それは通勤客だった。新宿行きの始発電車を待つ黒スーツ姿のサラリーマン達がきちんと整列して列車を待っていた。そのとき朝の6:55だ。よく見ると年代も服装も均質化している。きっとライフスタイルもそうだろう。仕事柄、海外調査も少なくない所長にとって、日本でのこうした均質さが世界では異質に映るものだ。

 ここに均質的なわが国の家族像、コミュニティ像を垣間見ることができる。昔はニュータウンだが今はオールドタウンでもしかりだ。お隣の駅の近辺は低層でエレベータのない大団地群だ。しかも駅からバス利用者も大勢いる。かつての賑わいはなく、子供の声は聞こえず、団地の商店街はシャッターが降りたままだ。主に団塊世代以上の方が住む”空の巣(子供が独立して巣立っていった)”の”限界団地(筆者の造語で限界集落の都会版)”に変貌してしまったらしい。

 しかし、そうした高齢化を負のイメージと捉えるのではなく、世界に誇れる高齢者にやさしい、住みやすい、多世代が集住する環境(子育て、親育て、地域活動支援、介護支援、医療支援等)を積極的に考えてみようではないか。

新しい未来型の新産業はそうしたところから生まれるものだ。

2009年4月20日 (月)

リーマンショック以降、世界は再び阿修羅の時代へ

 先日東京国立博物館で興福寺の阿修羅展を見てきた。37年ぶりだろうか。奈良への中学の修学旅行以来だ。阿修羅像は目元の涼しさからか、とても悪神には見えない。インド神の中心である帝釈天と戦い続けた敵役の神であり、その後仏教の守護神に変身したそうだ。これから始まる修羅場を鑑み、その悲哀観が全身に漂っているようだ。

 所長の近著『みんなが主役のコミュニティ・ビジネス』(ぎょうせい2006年)の”はじめに”で紹介した「環境と経済が大混迷するであろう21世紀初頭の狭間…」でも言ったように、私たち人類は再び修羅場を迎える。阿修羅像はそうした予言を伝えたく、奈良からわざわざ東京にお出ましになったと感じたのは所長だけだろうか。

 リーマンショック以降、金融資本主義経済の本格的崩壊がはじまり、一方身の丈、等身大の経済はますます安定感を増すばかりだ。そして、それは適正規模の自立化促進とそうしたもの同士を結びつけようとするコミュニティ・ビジネス・ネットワークの時機到来を意味している。

2009年4月 7日 (火)

線路は続くよ、どこまでも(ユリ高原鉄道編)

 秋田県由利本荘市にある矢島町は、鳥海山麓を走る3セクの由利高原鉄道によってJR羽後本荘駅に接続されている。先日所長も講演でご当地・矢島町を訪れたが、トンネルを抜けるとあたり一面に雪景色が広がった。そこが矢島町であった。ご当地も少子高齢化と人口減少に苦しんでいる地域の一つであるという。

 地域活性化には”郷土愛”と”地域資源活用”が大切だが、ご当地の地域資源は一体なんだろうかと、いつものくせで資源サーチのアンテナを立てた。やはり由利高原鉄道がキーポイントであろう。

 ”線路は続くよどこまでも”という有名なフレーズがあるが、線路は全国に繋がっており、全国から観光客を呼び込むことが可能である。観光地にはだれもが口ずさむことが可能な”小唄(テーマソング)”が必要である。春まじかな由利高原鉄道沿線には、まもなく”ユリの花畑”が出現するという。

 そして”ユリ高原鉄道の物語”はもう始まっている。数ヶ月前、TV東京の番組”田舎へ泊まろう”でご当地が舞台になり、東京から来た演歌歌手(彼女に小唄を歌ってもらうとよい、かつTV・音楽業界とも関係性が生まれるだろう)が泣きながら泊まるところを探していたが、まさか所長が数ヵ月後にその現場の駅に立つとは思いもよらなかったことである。だからこそ人生は面白いのだ。なにが起こるか分からない。

 いままた新たな物語として”釣りキチ三平”列車が走っている。所長も先日その列車に乗車してきたが、ご当地には釣り名人がいるはずである。列車の中で釣りのポイントや講釈をするボランティアガイドさんが乗車しているといいなと思った次第である。渓流釣りや鮎釣りなど、ご当地にはまだ未開発(自然と共生したもの)の地域資源が沢山あるはずだ。ついでに釣り具メーカーさんの協賛も得るとよい。地域活性化策には、こうした関係性づくりが大変重要なのだ。

 また矢島町には、かって修験道の宿坊があったり、山岳信仰も残っているという。地域資源にはこうして埋もれてしまったものが少なくない。”郷土愛”をもった地域の人々が一つになるところから地域資源の掘り起こしが始まり、そして地域活動や地域事業化が多数誕生し、やがて地域活性化の波が起きて来るのだ。

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