昨日夕刻、岡山県倉敷市の講演から帰京した。1日遅れたら今回の地震の影響を受けていただろうと思うとぞーとする。
倉敷は半年ぶりだ。岡山駅でのぞみN700系を降り、在来線に乗り換えて18分ほどで倉敷駅に着く。駅北側の閉鎖されたチボリ公園口に出ると、テーマパークの残像が眼に飛び込んできた。まちのシンボルが一つ消えることは、地域コミュニティの衰退に大きく影響を与える。大原美術館を中心とした美観地区に続く、新たなまちのシンボルとなるべきものであったが、チボリ公園は残念ながらこの度閉鎖に追い込まれた。
閉鎖の要因はいろいろあるだろうが、新幹線との関係で少し私見を述べてみたい。
当該施設は、東京、大阪方面から岡山駅で降車するにはやや立地に問題ありである。さりとて同じ倉敷市西部にある新倉敷駅では行き過ぎてしまい、かつ”のぞみ”も停まらず不便である。ずばり倉敷駅に新幹線駅を誘致すべきであったようだ。しかし新幹線の倉敷駅設置では、お隣の岡山駅と数分で結んでしまうため見送られたそうだが、現在の東京―品川間の6分で結ぶ感覚で考えれば可能ではないだろうか(実際にはそう簡単ではないが)。現状の手前で下車するようなワンクションを置くことは、やはり何事も2次的な対応にならざる負えないだろう。地方駅ではこうした新幹線駅の設置とまちづくりは切実な問題である。ましてや倉敷市のような観光・交流都市はなおさらである。
今回心なしか夕刻の駅前商店街は人通りも少なく、雨のせいもあり、シャッターを早めに閉めている商店が多く目に付いた。最近郊外に大型のSCが出来たとのことでその影響もあるのだろう。倉敷ばかりか、全国の都市のまちづくりに、こうして新幹線駅、SCの設置は大きく影響している。
そして地方分権や地域分権とは、自己決定権をいかに多く地域内に留められるか、または中央から取り戻せるかである。この視点が本来の自立都市圏構想にないと、ただの絵に描いたモチになる。また一方、新幹線駅の設置は、負の側面として中央からストローで吸い取られ、地域に何も残さないことも在りうることをけして忘れてはいけない。