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2011年5月

2011年5月30日 (月)

俳人平畑静塔を思う。

先日日経5/14の夕刊を読んでいてハットした。俳人平畑静塔の記事を目にしたからである。

もう40年近く前になるだろうか。高校1年生の夏、北関東の県庁所在地で1ヶ月間郵便配達のアルバイトをした。時給200円、日給1600円の時代である。

所長の配達区域の中に西川田診療所という小さな医院の配達先があった。いつも分厚いたくさんの配達物が気になって宛名を確認したが、平畑静塔先生という宛名書きが多数あった。医師としての平畑富次郎でなく、俳人平畑静塔を知ったのはそのときだ。以来40年ぶりに新聞紙上でその名前と業績を知ったわけである。

一度だけポストに入りきれない郵便物をベルを鳴らして医院の扉を叩いたが、出てきたのが初老の平畑静塔先生であった。温和そうに見えるがその眼光はキリットしていた。郵便物を渡すと『ごくろうさん』の一言が今も脳裏に残る。

『自由は身の幅のままに』静塔

『地域活動は身の丈で無理をせず』シンコウ(信孝)

2011年5月28日 (土)

美術の館(ヤカタ)の美三昧

先日東京国立近代美術館にて生誕100年の岡本太郎展を二度にわたって見てきた(所長は岡本太郎好きで代々木の研究所には彼のリトグラフが3枚掛けてある)。

今回の展覧会で、岡本太郎はやはり日本の主流をいっていたことを確認した。

それは彼の作品に現れている。まずは”師団長の肖像”であり、次に大阪万博の”太陽の塔”である。

いずれも当時彼が主流でないと、お上からお声が掛からない代物だし、引き受けるところに主流の主流たる所以がある。

そして今週は東京国立博物館の写楽展だ。館(ヤカタ)の中に同じ作品(浮世絵=版画なので沢山同じものが存在する)が2点、3点と展示してある。同じものが何枚もあるというところに浮世絵・版画の存在価値がある。

同じ作品を何枚も額にして掛けるというのは、かってないユニークな展示方法だ。それはさもありなんである。

有名な写楽の浮世絵はほとんどが版画である。視点のあて方によって価値や意味が違ってくる。それには比較対象となるものと並べて展示する必要があったのだ。よってヤカタでの展示作品が同じもので2点、3点と重複するのである。

江戸期の浮世絵は、今風に言えば当時の歌舞伎役者のブロマイドである。写楽の有名な浮世絵(海老蔵など)も、版木の限界に挑戦し、モノによっては、2,000~3,000枚も刷られていたという。

こうしてお上のヤカタで浮世絵を額(情報財になった浮世絵)に入れて見せることは、明治維新の文明開化の成果のひとつなのだ。先人たちに感謝しよう。

2011年5月25日 (水)

中山間地では廃校が問題だ。

先日北関東の中山間地を講演でまわってきた。

どこも平成の大合併で市町村が合併し、さらに小学校・中学校・高校の合併で、空き校舎が中山間地に数多く点在している。校舎も1年以上経過すると、一部に雨漏りが発生し、水道水も赤茶けてくる。さらに建物を点検すると耐震に問題がある校舎が半分近くにも達するという。

こうした公的財産を売却するにもいくつかのハードルがあり、校舎の資産価値は毎年下落していく。解体するにも数千万円の費用がかかる。少子社会はこうして地域コミュニティで負のスパイラル化とする。一方社会保障を必要とする高齢者人口が増加し、地域コミュニティの足腰を弱体化させる。

そしてかつての箱モノ行政は校舎を維持・運営するための予算がさらに必要となる。仮に校舎・校庭の売却話しが進んだとしても、落札予定者にはその後の固定資産税等の税金が大きな負担となり、中山間地での事業がまったく採算に乗らないことを悟ると、入札に躊躇せざる負えない状況となる。

こうした困った問題がいまや日本各地に散見されるのだ。

2011年5月18日 (水)

人を大切にするシステム

戦後脈々と築き上げてきた”わが国の形(システム)”が徐々に瓦解しはじめている。

何か変だなと思わざる負えない最近の出来事。

”国策による正義”が正義でなくなった日航、そして今回の東電。

世界との情報文化・作法の温度差から傷ついたトヨタ、そして今回の情報流失のソニー。いずれも日本を代表する大企業だ。

わが国のシステム輸出は今後無理だろう。あまりにも世界とOS(情報文化・作法)が違う。世界標準になるには情報文化が違いすぎてシステムの汎用性が確立できない。

極東の島国はやはりガラパゴス思考なのだ。過去の歴史がそれを証明している。わが国はあまりにもヒューマンウェアがユニークすぎるのだ。欧米流のマネジメントは向かない。

最近友人と回転すし店で食事をした。城東地区にある繁盛店だ。

店長曰く、正社員は店長一人でストレスも強く、毎日てんてこ舞いだ。あとのスタッフ60人は全員がアルバイト。彼らの人事労務管理と店の販売促進を一手にマネジメントしているという。企業の人件費圧縮はこんなところにもあらわれている。これが所得格差を生む元凶なのだ。ひと昔前はだれもが大学を出れば職に就けた。

この回転すしの経営システムもきっと世界標準にはなれないだろう。あまりにも人間を大切にしているシステムとは思えないからだ。

2011年5月12日 (木)

先人を敬う精神が脈々と流れている岩手県。

大正の関東大震災もだいぶ揺れたようです。大正生まれの伯父からその体験談を聞いたことがあります。

当時の震災復興院の総裁は大風呂敷の異名をとる後藤新平でした。彼は岩手県の生まれ、奥州市の”武士の家”の出だそうです。

私は講演やフィールドワークの仕事の関係で、延べにすると岩手県へは100回近く訪問しています。

岩手県人のすごいところは、首相を何人も輩出しているだけではありません。彼らと飲食を共にすると、やや大風呂敷の傾向になります。宮澤賢治の銀河鉄道の世界も、まさにそれに当てはまることでしょう。

そして後藤新平や新渡戸稲造などに代表される、先人を顕彰する記念館が県内各地にあります。それらは郷土の誇りとして、先人を敬う精神が脈々と流れていることの証でもあります。

そうしたことからも彼地が復興しないわけがありません。

2011年5月10日 (火)

大泉学園の牧野富太郎博士の旧居・庭園を訪ねてきました。

東京練馬の大泉学園の牧野富太郎博士の旧居・庭園を訪ね、この国の学歴主義という悪癖を見てきました。

江戸時代生まれの彼は小学校しか行っていません。独学で植物学を極めました。その結果、東京大学では”教授”でなく、47年間も”一講師”を務めました。

福澤諭吉は言いました。「門閥制度は親のカタキでござる。」。彼が慶應年間に創った学校は今(質も量も)日本一の大学のひとつになりました。

尊敬する建築家の安藤忠雄さんは、工業高校を出てから独学で苦節40数年、高卒というハンディのなかとうとう東京大学の特別栄誉教授になりました。

この国のカタチは外圧でしか変化しないことは今も昔もかわりません。

安藤忠雄、小沢征爾、棟方志功、池田満寿夫も、そして一部のノーベル賞受賞者たちも、みなそうでした。海外で評価されてはじめて国内で脚光を浴びます。

2011年5月 8日 (日)

資生堂の福原さんと駒井版画

この連休はカレンダー通りにCB総合研究所に出勤し、あとは法政大学大学院のコミュニティ・ビジネス論の講義を4/30と5/7に行い、さらに美術館と図書館通いの平穏な日々を過ごしてきた。東京近美の岡本太郎展と町田市の駒井哲郎版画展に出かけてきた。岡本太郎は後に譲るとして、いま駒井哲郎の版画展が町田市版画美術館で開催されている。こんもりとした谷間の森にある美術館でお気に入りの美術館のひとつである。

駒井哲郎の版画の世界は主に銅版で表現されているが、わが国の銅版画家としては最高水準にある人だ。昭和28年に資生堂で初の個展を開催して以来、資生堂名誉会長の福原義春さんは大の駒井コレクターとして収集に努めてきたらしい。その成果が今回の福原コレクションとして町田市の版画美術館で開催されている。

福原さんとは9年前になるだろうか、直接言葉を交わす機会があった。当時私は立教大学の大学院で兼任講師をしていた。夏季の集中講義で立教大の講師控室で福原さんとお会いし、名刺交換と言葉を交わしたことがある。福原さんはメセナの講義、私はコミュニティ・ビジネスの講義に来ていた。私が全国を講演で歩いていることをお話しすると、福原さんがそれは大変良いことだ。ぜひがんばって続けてくださいと言ってくださったことを今でも覚えている。ちなみに資生堂との御縁は1989年ころだろうか、大阪資生堂でマネジメントの講義に出講したことがある。当時の私は産業能率大学の研究員であった。

私も大の版画コレクターとしてHP上にバーチャル美術館を開設している。駒井版画も2点コレクションしているが、金子光晴詩画集「よごれてゐない一日」にある挿画1の黄色の銅版画(駒井作)が大のお気に入りであり執務室に掲げている。

2011年5月 3日 (火)

京都は千年の都。わざわざハコモノで囲う必要はないか。

ひと月前になるだろうか。4月6日に拙著「新版 コミュニティ・ビジネス」学芸出版社刊の出版記念時における京都での講演のこと。

所長が京都に行くときは、いつも仕事の合間を見つけ必ず寄ることにしている場所がいくつかある。そのひとつが三十三間堂であり、千手観音坐像や風神、雷神像、そして二十八部衆立像に会いに行くのである。暗闇の中に立ち並ぶ千体に及ぶ像の荘厳さがリフレッシュに最高なのだ。

今回は、その目の前にある京都国立博物館の常設展も一緒に見ようと、そのゲート付近まで足早に出かけたが、残念ながらその日は平成25年の秋まで改築中で入れないとのこと。

よく考えてみれば京都は千年の都。町そのものが何処へ行っても博物館なのだ。わざわざハコモノで囲う必要はないな、と思った。よって3年近くも常設展示室を閉じていてもまったく問題なしなのだと勝手に想像した次第である。

今回時間がなくて行けなかったが、いつもは太秦の広隆寺の弥勒菩薩像や平安京の唯一の遺構が残る東寺など、京都に来て時間ができればよく訪ねるところだ。

翌日奈良斑鳩の里の中宮寺の菩薩半跏像も拝顔したが、こちらも穏やかな菩薩さまであった。

震災後の安寧を願い中宮寺の菩薩さまに合掌してきた。

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