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2014年7月

2014年7月31日 (木)

我が家ではますます遠くなる鰻かな。

細内の講演道中うまいものいろは歌留多より

鰻の秀逸は江戸の神田川か野田岩あたりか。

成田詣には利根川の天然鰻も良く合うぞ。

名古屋栄のひつまぶし、締め茶漬けで尾張よし。

酷暑京都に良く合うものは白焼きよりも鱧だろか。

甘く焼きしめた宮島のアナゴめしに優るものなし。

熊本のやっちろの鮎弁当は新幹線駅弁ではピカ一か。

柳川の白秋鰻飯も負けては居れぬうまさかな。

今朝のこと、わが家に届いた薩摩川内鰻はほんの一切れで野口英世さん二枚なり。

吾輩にはますます遠くなりにける鰻かな。

お粗末

2014年7月29日 (火)

むかし秘仏いまリニア新幹線が光明をもたらすか

推古天皇の御世、西暦602年ころ信濃国の本田善光という人物が難波の堀江(現在の大阪市)で秘仏を拾ってご当地(飯田市座光寺)に持ち帰り、その秘仏を祀って寺院を建立した(善光さんの名前からその寺は善光寺と呼ばれ、その後いまの長野市へ移転したのでご当地にある元の寺院は元善光寺と称する)のが元善光寺の始まりといわれている。

そして西暦2027年に、ご当地に再び光がさすというリニア新幹線の新駅がこのあたりにできるという。東京からご当地まで現在4時間かかるところがリニア新幹線で40分、またご当地から名古屋まで現在2時間かかるところが20分という地の利になるそうだ。

この時代の流れと科学の進歩に本田善光さんは何をか思うやである。遠い古代が偲ばれる。この辺りは古墳時代中期の古墳が多数見受けられ、古代信濃国の中心の一つであったようだ。

こうしてリニア新駅の設置で、一千四百年を経た今、再び信濃国(南信州)の中心として伊那谷は復活するかもしれない。21世紀の伊那谷バレーは世界に輝く先端科学技術のバレーになっているかもしれない。

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これもご本尊様の功徳の顕れかもしれない。

<細内のFBと同時掲載中>

2014年7月26日 (土)

地方でも総合型地域スポーツクラブは運営が可能だ

地域づくりの専門家として全国各地に出かけているが、大都市と地方の違い、メリット&デメリットを質問されることが少なくない。

簡単に説明するときに引き合いに出す事例として、有機野菜の販売は都市部では営利事業が成立するが地方、中山間地では成立しにくい。同じように都市部では営利事業としてスポーツクラブが成立するが地方では成立しにくい。

このとき着目すべき視点は営利事業(収入ー経費>0)として成立するかどうかだ。概して地方では需要と供給の関係が、このところの少子超高齢化で成立しにくくなっている。地方でかろうじてこの法則をいま堅持しているのは極論すれば県庁所在地だけだろう。

良い学校も、良い病院も、良い高齢者施設も、良い生活文化施設も、その人気度を反映して人口密集度の高いところの県庁所在地や都市部に集中している。みんなの足による移動(投票)で需要と供給が成立している。事業者は赤字になればそこから撤退していくのが人の世の法則だ。

しかし地方、中山間地に行くと、人口規模が数千人から1万人、3万人の市町村には立派な各種公共施設(特養やデイサービス、図書館、体育館、保育所、幼稚園、小学校、中学校、農商工交流施設等)がある。これを利用しない手はない。

例えば営利事業では成り立ちにくい地方、山間地のスポーツクラブはどうだろうか。立派な社会人向けの体育館、プール施設、屋内運動場、柔剣道場、陸上競技場、そして小中学校のスポーツ関連施設も夜間や土日の地元コミュニティへの施設解放も進められている。

国・文科省の施策の一つに総合型地域スポーツクラブがあるが、地方では上記スポーツ施設をフルに活用して、非営利型で気軽にスポーツを楽しむ、または新しい地域の絆づくりがスポーツを通して広がりつつある。

地方の数千人の村でも、こうした総合型地域スポーツクラブは運営が可能であり、体育・教育系の大学を卒業した若者が都市部から地方へ、希望を持って移住しつつある。こうした灯火は営利事業にはない良さを包含している。その火を絶やさないためにも、行政や地域住民、地元企業、各スポーツ団体の指導者等の事業運営における協力体制が真に求められている。

2014年7月19日 (土)

CB視点から見た花農場あわのの成功条件

 

先日千葉県山武市の受講生達と一緒に栃木県鹿沼市上粕尾にある花農場あわのを訪ねた。花農場さんとのおつきあいは、栃木県主催の2003年のコミュニティ・ビジネス(CB)スクール(細内所長が主任講師を務めた)にある。その時、花農場あわの代表の若林さんとは栃木県の紹介によりCBの先進事例として紹介を受けた。以後、私が2005年12月に放映されたNHK総合『ご近所の底力』の解説者を務めた時も、CBの先進事例としてその成功ファクターを紹介したところだ。

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   さて何を持ってビジネスの成功というのかも議論があるが、ここでは有限会社として設立後15年が経過し、初期投資した写真の建物(母屋)のローン残高約2000万円も13年ほどで完済したとのこと。また女性8人による農家の母さんたちの起業という視点から見ても立派なCBの成功事例だ。

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  それではCBとしての成功ポイントを述べてみよう。

まず営業時間だ。それは9時から17時であり、主婦の働く場であるから夜の営業はしない。昔の蕎麦屋さんの売り切れ御免のポリシーと一緒である。これが本来の商売の王道である。

  そして客に喜ばれる料理を出すため、新鮮な原材料(隣の畑から採取)と料理の腕を上げるため県都宇都宮の有名シェフの元に開業以来毎月料理の指導を受けに行っている。

  土地は借地で元こんにゃく畑1.1ヘクタールを整地し活用している。商いの基本は借地が一番だ

  会社の経営は全員参加で行っている。毎月の会計業務が順次回ってくる。店の日計を締めて総勘定元帳につけるまで全員が順番に担当し、会社のストックとフローが分かる様になっている。

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  写真のテーブルに並べられた料理はほとんどが地元産である。ハーブ入りのウォターも冷たく美味しかった。

また来たくなる気持ちがリピーターの循環を生む。

2014年7月17日 (木)

ここは百貨店?それとも栃木市役所か?

昨日所用で仕事の帰りに栃木市役所に立ち寄ったが、入り口を見て驚いた。ここは百貨店ではないか、と我が目を疑った。

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ここにはかつて地元百貨店があったが3年前に撤退した。そこに市役所がまちなかの活性化を狙い、改装を施して今年2月に進出してきたのだ。その1階のフロワーにまたまた電鉄系のライバル百貨店が店子(食品売り場を併設)として入居し、この3月にオープンしたばかりとのこと。

仕事柄、講演などで全国の県庁や市町村役場を訪問してきたが、昭和40年代から栃木市を知るものにとって、まちなかの空洞化がここまできたかと思い至った次第だ。最近栃木市にも数回講演で来ているが、駅前から現市役所までのハード面の整備は完成しているが、それに反比例して観光客は年々減少しているように感じていた。平日は特にさびしいかぎりだ。

何が原因かというと、やはり東京・横浜・千葉方面からのアクセスの悪さだろう。昨日も新宿駅からJR・私鉄接続の特急で向かったが、乗り換えなしの75分の快適な反面、片道料金が2980円もかかる。仮に普通電車に乗って栃木まで出かけるとなると、新宿駅から埼京線に乗り、赤羽駅で宇都宮線に乗り換え、ふたたび栗橋駅で接続する東武日光線に乗り換える(上野駅から宇都宮線を利用しても小山駅で乗り換えが必要)。料金は約半分になるが2回の乗り換えはたいへん難儀だ。

一方関東で同じ蔵のまちを標榜する川越市は池袋から片道470円で約1/6の値段、時間も池袋から40分ほどで行ける。細内所長は川越市近辺の短大教員を10年間務めたが、川越市のまちの変貌は、ここ10年だけでも目覚ましいものがあった。年間の入りこみ客数は約600万人だそうだ。川越市内にあった元造り酒屋再生PJの委員も務めたことがあり、かつ川越駅が短大への通勤途中でもあったので、50年前から知っている栃木市との差異をまざまざと眼に焼き付けさせられた次第だ。

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しかしながら、この栃木市役所の内部は空間スペースがゆったりと取ってあり、快適な場となっている。全国的には、大型商業施設の撤退後、市民活動の場として市民サービスやNPOの拠点等に活用するケースが少なくないが、少子高齢化、人口減少時代にはこうした複合化?も有効ではないかと感じた入った次第である。

2014年7月12日 (土)

東京で有名な酒はやはり東京で買うものなのだ

3年前宮崎県都城市に講演にいった。源頼朝のご落胤といわれる?鎌倉御家人の島津氏発祥の地だ。そして明治20年代まで都城市は鹿児島県だった。

その帰りに西都原古墳群を見て回った。そこで驚いたのは玉壁が県南端の串間市から産出したことだ。西都原博物館でそのレプリカを公開していたが、九州に徐福伝説が多いのもうなずける話だ。昨年講演で訪れた熊本県八代市でも亀の形をした竜の伝説があり、大陸との交易が歴然と行われていた。すなわちヤマトとは別に大陸の文化が直接入ってきたのだ。

都城講演の帰りに石井記念友愛園を見せていただいたが、視察を終え高鍋駅への送迎の途中で、木城町にある武者小路実篤らの新しき村を山の上から見せていただいた。靄がかかりまるで桃源郷のような眺めだった。この4月から正式に始まった保育園・小学校の連携の仕組みはこのとき車のなかで理事長の児嶋さんからご教示いただいたものだ。

児童福祉の父・石井十次のご子孫でもある児嶋理事長さんに高鍋駅まで送っていただいたが、小生の要望で途中にあった東京で有名な焼酎屋さんの前で車を停めてもらったが、あの有名な焼酎はそこでは販売していなかった。造り酒屋で自分のところの酒を現場で販売していないということはいったい何があるのか?造り酒屋の末裔(祖母の実家が造り酒屋で只今家業を研究中)でもある小生にとってたいへん不思議な気持ちになった。

東京で有名な酒はやはり東京で買うべきものなのだ、とおもった。

こうしてコミュニティ・ビジネスがグローバルビジネスに変わるのは、大市場東京で販売した方が質量ともに大きく伸び儲かるからだ。他業種でも同じような事業戦略で成功した会社は決して少なくない。このことが良いのかわるいのか、地域主権者にとって難しい判断だ。

2014年7月11日 (金)

地域の社会実験:エコロジーとは本来そうしたものだ

台風通過後に虹が出た。きっと良いことがあるんだ。

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街の公園の片隅にて、除草実験に参加したヤギさんの気持ちは複雑だ。

CO2は減らせたが、まだら模様に草木が残っている。全部食べてくれると勘違いした人間の思い通りにはならなかった。エコロジーとは本来そうしたものだ。

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3年前だろうか、沖縄講演の帰りに那覇空港の売店で山羊ミルクを飲んだ。少しくさみがあったが美味しかった。沖縄の離島には野生の山羊の島があるという。

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今日で山羊の社会実験は終了だそうだ。山羊さんご苦労さんでした。







2014年7月 8日 (火)

森浩一先生へのオマージュ

全国各地を考古学者の視点から踏破された同志社大学名誉教授森浩一先生が亡くなられてからまもなく1年が経つ。

私も仕事の関係で全国各地、各都道府県に泊まり、こうして旅の日記をしたためているが、森浩一先生の提唱される”地域学の視座”が、当方のまちづくりや地域づくり、コミュニティ・ビジネスの考え方とあい通じ合うものが少なくない。

「森浩一の考古学人生」(大巧社 2010)の中で森先生はこう述べられている。

『各地を訪れるうちに日本文化の特色は大和や京都だけにあるのではなく、さまざまな地域にそれぞれの生産力と文化のまとまりのあることに気づきだした。つまり地域史を総合したものこそ本当の日本の歴史だとおもうようになった。』

まさに我が意を得たりとはこのことであるとおもった次第である。

そこで私も森浩一流に言うならば、

『各地を訪れるうちに日本の経済・産業の特色は東京をはじめとする大都市だけにあるのではなく、さまざまな地域にそれぞれの地域経済・産業と文化・風土のまとまりのあることに気づきだした。つまり地域の経済・産業や文化・風土を総合したものこそ、本当の日本の総合文化・経済力だとおもうようになった。』

2014年7月 4日 (金)

”地域の知恵”がいま問われている

大都会の三鷹市、品川区などの小中一貫校は有名だが、地方・過疎地の保育園・小学校連携の”保小連携(小規模特認校制度)”は、みなさんご存じだろうか。学区を超えた進学制度に地域・過疎地の再活性化を問うものだ。

地域の小学校を残そうと、日本三大入植地の一つ、宮崎県川南町では、この4月から新しい試みが始まった。

児童数がピーク時の10%(50数名)までに低下した小学校の校庭に、町立の3つの保育園を廃止・統合し、その経営権を公募で民間に譲渡し、学区をこえて連携した保育園(社会福祉法人)と小学校(町立)に園児や児童たちを集め、にぎわいを取り戻そうとするものだ。

現在、その小学校の校庭には200名を超える園児や児童が集まり、賑わいを取り戻しつつあるという。

財源の問題もあるが、もはや単に保育園、小学校の統合・廃止だけでは、住み慣れた地域の少子高齢化や急激な人口減少には耐えられない状況なのだ

”地域の知恵”の出しどころが、こうしていま全国各地で求められている。

消えて行く地域にならないためにも、地域視点を身に付け、郷土愛を育みながら、地域で生きる事業(コミュニティ・ビジネス)を見極めよう。

行政には衰退していく一つひとつの地域コミュニティに眼を向けて、地域の自立を財源面や人材育成の面からぜひサポートして欲しいものだ。

2014年7月 1日 (火)

これからの人口減少社会と新たな視座~人口が自然に減ることも良しとする大人の文化がそこには必要だろう

先日母方の従兄弟会があったので、事前に幕末からのご先祖を除籍簿と過去帳から調べてみた。

江戸幕末のわが国の人口は約3000万人で、食料のベース・米の生産高も約3000石、一人が食べる米の量を1年で1石としている。その1石は米150キロ分=2.5俵であり、米の生産高と人口のボリュームバランスが上手くとれていた。つまり身の丈サイズの日本列島だったのである。江戸時代が270年間平和であったのはこの身の丈サイズの御蔭なのだ。

しかし米の不作が続くと飢饉となって米騒動が起きた。大坂の大塩平八郎の乱はこの現象の一つ。江戸幕府の崩壊はペルリの来航だけでなく、天明天保の飢饉が真の原因とも言われている。

さて本題に戻ると、小生から4代前は安政4年生まれで、明治・大正と生き抜き、何と子供が12人もいた。地方の城下町で乾物問屋を営んでいたのでわりと裕福であり、当時の国策にも乗って子沢山となったらしい。そして3代前は明治8年生まれで、こちらも子沢山の9人。また2代前の明治32年生まれの祖父は子供が6人と、昔は兄弟や家族が多かった。

その結果、江戸幕末の人口3000万人が、現在その4倍の約1億2千700万人となっているのである。この子供の数の変化は父方も同じで、明治・大正・昭和と続く一般庶民の家族構成を表している。

これからの人口減少社会とは、この明治維新以来の上昇回転サイクルが逆回転し始めていることで、このことに気づくことが重要であり、もはやその流れを食い止めることは人類史的に見ても困難なことなのかもしれない。

こうした先人たちの家族構成の経緯や経験を踏まえ、わが国の進行する人口減少社会像を一人ひとりの生活がある地域コミュニティの現場で議論すべきだろう。そこから議論してこそ、はじめて独居高齢者の問題や老老介護の問題、子育てと両立する女性の働く場所などの地域・家庭問題に新たな視座が見えてくる。

人口が減少する地域社会の中で身の丈サイズの生活感が多くの人々を真に幸せにするが、グローバル主義やデジタル資本主義は膨張や拡散するだけで、多くの人々を傷つけ、ほんの一握りの人の幸せしか満足させない。

人口が自然に減ることも良しとする大人の文化がそこには必要だろう。

これを”足るを知る”とも言う。

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