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2014年8月

2014年8月30日 (土)

地域の歴史風土と先祖の生きざま

厄年を越えたころ男子一生の仕事を見つけ、その仕事で独立して早13年になる。

忙しいときは大学にて週3日の授業をこなし、地域おこし、コミュニティ・ビジネスの講演・起業講座で年間100泊近く全国各地のホテルに泊まっていたが、それでは体力がもたないことが分かり、最近は仕事をセーブしながら、超高齢社会をタオヤカに生き抜く技・知恵の研究開発に取り組んでいる。

そして、ここ3年~4年特に気にしていることがある。それは自分のルーツ探しだ。仕事の合間を見つけては関係者に話しを聞きに行ったり、都立中央図書館等から古い文献を取り寄せて目を通し、時にはお寺さんに行って過去帳を見せていただき、ご先祖様の生きざまを追跡調査している。

その一つに細内姓はどこから来たのか、来年2015年で日光移住700年目にあたる(一説には大同3年の西暦808年ともいう)。 足尾銅山が発見される前の日光足尾だから、なぜそんな山峡部に移住したのか(西暦1315年は鎌倉後期)、不明な点が少なくないが、度重なる大火で古文書などの関係書類がまったくない。

しかし細内姓の広がりもインターネット社会でだいぶ掌握しやすくなった。全国に細内姓は200軒近くある。家紋は北陸地方に多い梅鉢、丸に木瓜など藤姓に繋がるものが少なくない。

また母方のご先祖は旗本家、美濃斎藤氏、藤原氏に繋がり、江戸期の寛政譜をはじめとした各種武鑑を読むことが増え、歴史上の人物が闊歩して面白い。

私にとって地域の歴史風土と先祖の生きざま1000年に及ぶ時間軸、歴史観が当面の研究課題の一つになりつつある。

日本の各地域300か所に及ぶ地域研究、人物研究はとても面白い。

地方の活性化とはこしたこと(古代からの人々の営みとその歴史の積み重ね)から始まる。やがてそれは地域独自の風土・生業を生み出し、現代の経済産業集積へとつながるものだ。

極論すれば、こうした歴史観、風土観、産業観を踏まえた地方活性化でないと、継続した本当の地域発展はありえないと思う今日このごろである。

2014年8月29日 (金)

細内所長、山峡を行く

先日南信州での仕事を終えて、長野県の飯田駅からJR東海の特急伊那路に乗りびっくり。名古屋経済圏と地元では言いながら豊橋行きの車両は乗客もまばら。車内の交通広告も豊橋や名古屋近郊のレジャー施設のものがほとんど。東京のものではないのがここ伊那谷の特徴か。それともJR東海の路線エリアだからか。電力も長野県内は中部電力。東京とアンペアが違う。

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リンゴをもった少女の像と駅舎の赤がリンゴ色でとても印象的だ

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特急伊那路はJR東海が運行するスマートな電車だ

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車内はだれもいない。貸切状態だ。セミの鳴き声のみ我が心に響く

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天竜川の蛇行に合わせて線路も蛇行する

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     山峡を走る電車に我が心は弾む

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飯田線は長野県、静岡県、愛知県の3県の山峡部を走る

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車掌さんのアナウンスで車中から必死に長篠城を写す

飯田線の2時間30分の旅はあっという間であった。

東京から南信州へのアクセスは特急を利用するならば新幹線ひかりで豊橋から飯田に入るのが便利だ。山峡の眺めは絶景の連続だ。紅葉の季節に訪ねるとさらに良し。

わが国はやはり観光立国を目指すべきだ。

2014年8月22日 (金)

豊かで平和な日本の象徴

このお盆の時期は結構忙しく、北関東、南信州、房総九十九里と関東甲信地区を仕事でまわってきました。日銀がお金の供給量を増やした関係でどこも人が多いのが今年の特徴です。

特に当社のある東京新宿は外国人が多かったです。円安ですね。お盆は新宿の回転寿司屋のほとんどが外国人でした。これは最近の特徴です。また有名なある洋食屋さんへ寿司と言って注文する外国人客がいて閉口したという話を店長から聞き、さもありなんと思いました。

さて昨日は少し暇ができたので友人知人たちからもらった招待券を有効活用し、東京ステーションギャラリー、草月流秘蔵コレクション展、三菱1号館美術館、出光美術館と美術館を半日4時間でアート・サーフインしてきました。平日にもかかわらず、カップルの年配者が多かったのは豊かで平和な日本の象徴でしょうか。

わが国のGDP500兆円は20年間ずっーと横ばいですが、新しい重厚長大の高層ビルが東京駅付近にはめっきり増えました。現在建築中のビルも少なくなく、小生20数年前の職場が東京駅前にありました関係で、東京駅近辺は大きく変わったなというのが正直な感想です。

大丸の地下食料品店街にあったチャコでよくイタリアン・スパをランチしたのが懐かしい思い出です。

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欧米化はますます深化している。大都市部は経済特区としてとらえた方が良い

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宗像大社の国宝銅鏡は見ごたえがあり、古代史ファンにはたまらない

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パレスホテルから見た建設中のビル

*細内のFB と一部同時掲載中

2014年8月19日 (火)

信州の農村に学ぶコミュニティ・ビジネス

昨日南信州の喬木村(たかぎむら)から帰京しました。地域力向上の講演旅行に行ってきました。

講演会の翌日に村民のみなさんからリニア新幹線の新駅(長野県で唯一地上にリニアが姿を現わすところ)ができるという場所の風景を丘の上から見せていただきました。

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その丘の上には喬木村を生誕の地とする児童文学者・作家の椋さん(椋鳩十)の石碑が建っていました。

椋さんの作品は、たしか小学5年生の時に国語の教科書で学んだ方が多いかと思います。次のような詩作がその石碑には刻まれていました。

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本日私がFBに上記の写真をアップすると、大阪体育大学の冨山先生から早速コメントをいただきました。この詩作にはコミュニティ・ビジネスの基本的なマインドが刻まれているという内容でした。

まさにその通りです。日本の原風景が色濃く残る信州の村々には、石碑に刻まれた心情が地元の方々に脈々と受け継がれています。

私も30数年前に信州にて青春時代の4年間をすごしました。私のコミュニティ・ビジネスの原点は、まさにこの信州の風土にあるといっても過言ではありません。

*椋さんの詩作より、コミュニティ・ビジネス的なマインドを紹介

日本の村々に 人たちが 

小さい小さいよろこびを追っかけて生きている

ああ 美しい 

夕方の家々の窓のあかりのようだ

椋鳩十

2014年8月 7日 (木)

8月15日終戦の日を前に先人の覚悟を想う

私は1957(昭和32)年生まれの57歳である。

私が小学1年生の時に東京オリンピック(1964年)があった。当時日本中のみんなが希望に燃えていた。小学校の授業を終えて家に帰り、オリンピックの開会式を自宅のテレビで隣り近所のみんなで見た。その日はたしか土曜日であったと記憶している。

小学校の先生の中には、戦争未亡人の先生がいてキリットされていた。髪を後ろに束ねて自分に厳しい女の先生であった。

子供のころ、町なかの駅前に、片足や片腕を失った傷痍軍人さんたちが大勢いて、白衣を着て寂しげにアコーディオンを弾いていた。

誰もが『戦争はいけない。二度としてはいけない』と叫んでいた。

昭和48年高校に進学すると、先生の中には二十歳で特攻隊に行き、生き残って社会科の先生になった教師(当時50歳前)がいた。先生はことわるごとに戦争の悲惨さを授業中に語り、時には感極まって泣いていた。

当時の高校校舎には、あえて冷房も暖房も設けず、自宅と学校の往復15キロの道を毎日自転車で通ったものだ。だから学生は『正、剛、寛』のもと、みんな元気であった。

一方当時の校長は士官学校卒業で、そこで同期だった当時の伊藤忠商事副社長を講演会に招き、青年立志の大切さと世界を股にかけて活躍する商社マンの素晴らしさを若者に伝えていた。

私たちの世代には、まだ戦争の語り部たちがたくさん身近にいて、その悲惨さを伝えていた。

1945年の敗戦をあえて終戦とした意義や意味をみんなが唱え、毎年その日を覚悟をもって臨んでいた。

しかし今はどうだろうか。

戦争の語り部が少なくなって、次世代への伝承者が減っていくのはたいへん残念でならない。

今年も蝉のなき声をシーンと聴き入り、滴る汗を拭きながら、自問自答の終戦の日を迎える。

2014年8月 5日 (火)

沖縄やちむんじゃーは益子につながる 

夏台風ー沖縄ー新婚時代に住んでいた濱田庄司の元家

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2年半前沖縄に内閣府沖縄総合事務局の招きで講演に行ったとき、スタッフの方に案内していただいた壷屋やちむんの里で見かけた”はましょう”の残照。益子焼の人間国宝・濱田庄司の作風の原点は、壷屋やちむんの里・沖縄にあると実感した。

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栃木県真岡講演(JC主催)の帰りに益子町の旧濱田庄司邸にて

今日も敬愛する濱田庄司の珈琲カップで目覚めの一杯を楽しむ。

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沖縄講演会の終了後、スタッフの皆さんと歓談する。

沖縄では一番の歓待でした。

2014年8月 3日 (日)

人口密集地には地区防災計画が必須だ

先日長野県の下伊那郡喬木村(人口6426人、一般会計予算33億3千万円))を訪れたが、その対照として気になったことがある。

東京はあまりにも人が多すぎるということだ。

あの忌まわしい3.11の時も細内所長は新宿の事務所におり、その晩は職場に泊まったが、窓から見える道路を大勢の人が整然と歩くのを目撃した。JR山手線、私鉄も止まり、野宿する人が道端や公共施設に大勢いた。

東京の人口は1330万人、通勤通学可能なエリアに住む人々が神奈川に910万人(東北6県の人口と同じ)、埼玉に723万人(北関東3県の人口よりも多い)、千葉に620万人(福岡県と大分県の合計と同じ)おり、合計すると何と3583万人が東京圏(世界一の都市圏規模)に住む人々だ。そして新宿駅、池袋駅、東京駅にはその人口の10%が毎日乗り降りしている。

これだけ人口が東京に集中すると、地震などの大災害が発生するとパニックになることが予想される。

政府は、2013年に災害対策基本法に自助、共助の重要性を説き、関連するいくつかの規定を追加したが、その中に2014年4月施行の地区防災計画がある。

東京郊外にあるわが棲家(人口86000人、一般会計予算362億円の自治体)の団地(団地管理組合法人)も、最近防災計画の周知(防災マニュアルの発行)や防災訓練を実施している。850世帯の自助を促し、自治体との連携による公助を引き出し、団地管理組合法人としての共助能力を磨いている。

自主防災組織としての地区サイズが、都市部ではこの団地サイズにあたる。そこには2400人が住む一大コミュニティなのである。地方では一つの村人口に相当するわけだ。

やはり東京は人が多すぎるのだ。東京一極集中を是正するには、たとえば会社をやめたら地方(ふるさと)にもどろう、だ。地方には幼馴染みがたくさんいるから税(住民税、所得税、贈与税など)の減免処置をするなど、各種インセンティブを付与すれば、もどる人は半分くらいいるだろう。あわせて子供達に郷土愛を醸成する教育も必要だろう。青森県で取り組んだ郷土愛育成を紹介 )。かつ地方の人口を増やす施策は全国一律でなく、地方ごとにメリハリを付けて行うことが、今後必要十分条件となってくるであろう。

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