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2015年4月27日 (月)

もう一つのオリンピック、パラリンピックとは何か

パラリンピックという言葉は、1964年の東京オリンピックから正式に使用し始めたようだ(1948年英国のグットマン博士による傷痍軍人の肉体的・精神的なリハビリを兼ねた車いすのスポーツ大会がロンドン郊外で開催されるが、これが始まり)。

最近は、もうひとつのオリンピックという意味で使用している(障害者の国際オリンピック大会としては、1960年のローマ大会がその1回目)。
パラリンピックは、当時脊髄損傷された方のスポーツによる積極的機能回復と生活の質の向上が主目的であったようだ。
私は、わが国におけるこの分野の実態を求めて、20年前に大分県別府市にある社会福祉法人太陽の家と私が当時勤務していた生活文化研究所の親会社オムロンとの共同出資による障碍者雇用専門の会社を訪問した。

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*訪問時にいただいた太陽の家の記念品
そこで熱心に働く車いすの社員さんたちを見て、たいへん感銘を受けたものだ。彼らはベルトコンベアーで流れるリレー機器を組み立てていた。保護される障害者たちからチャレンジする納税者たちに変身していたのだ。
会社のあるその町・大分県別府市は、車いすの生活シーンが市民生活に馴染んでいた。パチンコ店にも車いすのまま入れる専用のコーナーがあったし、町のタクシーは当時車いすによる利用も一般化していた。運転手さんの車いすの取り扱いは手慣れたものだった。
制御機器メーカーの創業者立石一真は『企業は社会の公器である。』と言って、それを別府市で1972年に太陽の家(理事長中村裕医師)と共同設立で実現した。本社のある京都にも同様の障害者のための会社を太陽の家と共同設立している。彼はまた『人を幸せにする人が一番幸せである。』とも言っている。現在、社会福祉法人太陽の家との共同会社は、ソニーやホンダなど計8社となり、そこでは1,000人の障害者が働いている。
私は、その後、コミュニティ・ビジネスの社会開発実験のために、東京都墨田区にフィールドを求め、そこで電動車いすの開発に取り組む有限会社さいとう工房の斎藤省さんと出会う。斎藤さんは車いすを通じて、いまもアジアの車いす障害者を支援している。志さえあれば、どんな小さな中小企業にもきちっと社会の公器としての役割がある。
私は思うところがあってサラリーマン研究員を辞し独立した。間もなく、福井県大飯町(現在おおい町)にある水上勉の一滴文庫(現在NPO法人)からお招きをいただき、まちづくり・コミュニティ・ビジネスの講演会(主催は大飯町)に伺ったのである。講演会終了後、一滴文庫では水上勉の長女の方ともお会いし、直接お話しをする機会を得て、私の研究命題である「障害者の生きる力とは何か」のヒントをいただいた。作家の水上は、1963年わが国の障害者の自立環境の遅れを中央公論に発表した。水上にとっては家族に障害者を抱えて、障害者の自立は切実な問題であった。水上は次女を通じて中村裕医師と親交を深め、ここに作家水上勉と中村裕医師の”太陽の家”創設・運動が始まるのである。

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山羊のようにやさしく、たくましく、したたかに


閑話休題
2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、後世の人々に何を引き継ぐのであろうか。そのレガシーには果たして何が込められているのだろうか。私は、2003年に英国のチャリテイ団体から招かれて訪れたロンドン東部地区の古めかしい町並みや50を超える異文化コミュニティに住む人々(2012年のロンドン大会はまさにその地が開催地となった。)を思い出しながら、過去の糸を手繰りよせ、いま私に何ができるか、自問自答を繰り返している昨今である。

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