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2015年7月 6日 (月)

森鴎外へのアンサー編「わが家の『伊沢蘭軒』に続く女系図物語」

前回の続き~
「伊沢蘭軒」の中で森鴎外も大身旗本・伊沢総本家の歴代当主を紹介しているが、藤原氏利仁流・井上家(分家)の親戚書にも伊沢家の当主やその子弟が親戚として多数記載されている。幕末時1861年幕府に提出した当書には、まず最後の当主井上利通(当時16歳)の祖母・伊沢内記女(娘)があり、祖父・井上熊蔵の妻として下記の写真の右端に記載されている。
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祖父井上熊蔵の跡取り井上収蔵利和(利通の父、女系でたどると当方から5代前)は、お寺の過去帳によれば1861年(文久元年)に亡くなった。その相続人として長男である井上利通が当書をしたため、最後に署名・花押をして幕府に提出したものである。写真は幕府提出の控えであり、ご当家に大切に保存されていたものである。
それによれば、新当主・井上利通の母は、大身旗本(5千石)・交代寄合の平野主水の娘として上記の写真に書かれている。平野家を早速武鑑で調べてみると、豊臣秀吉配下の7本槍の一人であり、明治維新時に新政府から石高直しで1万石の大名へ、かつ男爵に格上げされている。ちなみに平野家は鎌倉幕府の執権北条時政、高時の子孫を標榜している。また毛利元就に繋がる毛利分家の血を引く養子を迎えている家柄である。江戸期のきり絵図を見ると、井上家の屋敷は芝愛宕下にあり、隣家にその平野家がある。お隣同士の間柄であり、芝の増上寺(徳川家の菩提寺)の御成門前に屋敷があったことが判明した。御成門は将軍参拝時の重要な場所であり、付近一帯を平野、井上、柳生但馬守などの有力武家の屋敷で固めていた。
隣の平野家から塀を越えて井上家に嫁が来るということは、つまり平氏のDNAが妻(女系)を通じて井上家に入ることになる。遡ると先先代熊蔵の妻(伊沢氏)からは、清和源氏・武田氏のDNAが入り、先代収蔵の妻からは、北条・平氏、そして毛利の血も入ることになる。こうして旗本家同士の婚礼は名門武家のDNAが積み重ねられることになる。井上家もこうして江戸期を通じて武家の名門である清和源氏、北条・平氏、藤原氏、大江・毛利氏等の血脈が混じり合うことになる。徳川家康が藤原氏を最初に名乗り、その後、源氏に鞍替えしたのもこうしたことを考えると分らないことではない。武家同士の婚姻は、名門武家のDNAの重ね合いとなるのである。明治期に武家の娘を嫁にもらうことが商家の間で流行ったそうだ。吾輩の母方の4代前当主はそうしたことを意識して旗本家の血を引く娘を孫の嫁に迎えたのである。
しかしわが国の家系図は、名跡を継ぐということで成り立ち、必ずしも血脈を受け継ぐことを意味しない。よって仮冒も少なくないことを付け加えておく。わが国の家系図とは、そういうものであると高名な学者が言っていた。さもありなんである。
さて上記写真の中央にある井上勔次郎利明(利明は朱字にて記載あり)は、新当主・井上利通の弟(父・井上収蔵利和の次男であり、明治初期作成の戸籍簿・除籍簿と江戸幕府編集の寛政重修諸家譜や井上家系図書が繫がることを確認した)である。明治維新時、弟の利明は知行地のあった下野国河内郡簗村及び川名子村に家来・家族とともに総勢十数名で移住したという。一方、新当主の井上利通は将軍徳川慶喜に従い、水戸を経て自分の家来と供に静岡に移住したという。吾輩は下野国河内郡簗村(現在の栃木県河内郡上三川町)に移住した井上利明の系譜であり、利明の長女が明治期に現・栃木市西方町の造り酒屋(野中酒造)に嫁入りした女系の系譜である。しかも小生の母方、祖母方の女系繋がりである。吾輩にとって井上利明は高祖父(4代前の先祖)にあたる。その後、井上利明は明治期に知行地のあった明治村の助役となって、大正5年に鬼籍入りする(2013年祖先の戸籍調査時に我その墓前を訪れ合掌する)。明治期には、そうした役場の役人や警察官、学校の先生になる士族は少なくなかったという。社会的地位や名誉を手放し、かつ職も失う激動の時代であった。
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井上分家の親戚には、大目付の伊沢美作守をはじめ、逸見、山岡、松平、榊原、花房と徳川幕府を支えるそうそうたる旗本・親衛隊の名前が見える。彼らは井上分家の親戚筋として記載され、徳川幕府に家督相続時に正式提出された。
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右端には伊沢家最後の当主となった伊沢力之助の名前も見える。また真ん中に軍艦奉行並の木下氏は伊沢美作守の三男とある。こうして見てくると江戸の武士、武家の歴史はたいへん面白いもの、そして好奇心をそそられるものである。われわれの価値観の根底にはこうした武家文化の慣習が流れている。
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旗本井上家の知行地があった栃木県河内郡上三川町の中世の城跡。美濃の長井斎藤(井上)氏と同じ藤原北家出身の武家名門・宇都宮(横田・今泉)氏の城跡である。
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☆安土城は織田信長の最後の居城。城内には仏式寺院があり、城下にはキリスト教会もあった。今は兵どもが夢の跡である。ぜひ登城されることをお勧めしたい。城の規模を知るには体感することが一番分りやすいからである。
井上家は、藤原利仁(平安中期の武将で芥川龍之介の短編小説に登場する”いもがゆ将軍”=鎮守府将軍であり、娘を藤原秀郷(俵藤太)の息子に嫁がせている)流を称し、美濃国を本国とし、長井豊後守利隆をその中祖とし、美濃国関城主長井(永井)隼人佐道利を直接の初代とする(戦国期の長井氏と斎藤氏の系譜は交錯し、長井利隆、長井長広、斎藤山城守など不明な点が多いため、今回はあえて割愛した)。
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☆岐阜県主催の講演後に岐阜県関市にある関城にて記念撮影。関城主長井道利(15代前のご先祖)の名前が記載されているところを指さす。感無量である。
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☆ご先祖探究を始めて、すぐに小生に岐阜県庁より講演依頼がきて、岐阜県関市における基調講演時に、当方の母、祖母、曾祖母に繫がる女系譜だが15代前のご先祖・長井道利 (その息子3男・井上利定(時利)ー利義(利仲)ー利長ー利實ー利友ー利壽ー利喬ー利貞(多聞)ー利充(熊蔵)ー利和(収蔵)ー井上利明(高祖父・勔次郎)ー曾祖母ー祖母―母ー小生)が城主だった関城に立ち寄る。あわせて長井道利の義理の息子遠藤慶隆の郡上八幡城にも立ち寄る。
戦国時代に長井道利(井上家の家伝書によれば東美濃の兼山(金山)城主18万石と記載されている。森蘭丸の兄・森長可は若いころ道利の家来であったともいう)の三男・井上時利(当初長井氏であったが、主家斎藤氏の滅亡により織田信長に追われ、長井の名字の井の字を上にあげて井上と称する)は、やがて織田、豊臣の旗下となり、関ヶ原の戦いでは織田秀信の西軍に、大坂の陣では豊臣秀頼の侍大将格(黄母衣衆)の一人として参陣(兄の井上頼次も冬の陣の鴫野の戦いで豊臣軍の鉄砲隊長として二千の兵を率いるが徳川軍の猛攻に合い討ち死、薄田隼人正らと道明寺の戦いに挑むが討ち死。その子・井上利仲(母は赤座永兼(その妻は織田信安娘)の娘)は、大坂の役後、徳川秀忠の御台所・お江の口添えで京都・二条城の徳川家康に面会し、その罪を許されて徳川秀忠の直参旗本となる。江戸元禄期には加増されて別家設立となる。井上家は本家・美濃守、家禄500石と別家・家禄500石に分かれる。井上本家からは作事奉行、目付、京都町奉行、大目付、道中奉行が出るなど、家格に応じた活躍をしている。特質すべきは、本家井上家の井上美濃守利泰である。始めは作事奉行からスタートし、目付、京都町奉行、大目付、道中奉行と、そつなく役職をこなしている。娘は旗本の松平家に嫁しているが、跡取りに恵まれずそこから養子を迎えている。
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彼は京都町奉行在職中に幼児をなくしている(寛政2年)が、その供養寺が京都大徳寺の芳春院(開祖玉室宗珀、前田家設立)であり、玉室宗珀は井上利泰の直系のご先祖・長井隼人正道利の末子にあたる。そうした血縁関係を井上家の江戸の菩提寺にあった過去帳から発見した。井上利泰は一代美濃守であり、戒名は14文字もあり、そのはたらきは抜群であったことが推測される。菩提寺は渋谷区広尾の臨済宗大徳寺派の祥雲寺である。ちなみに祥雲寺は、黒田家設立の江戸の菩提寺である。
最後に歴史好きな私も、母、祖母、そして曾祖母を経て、細い糸のようにつながる旗本井上分家の女系譜(嫁入り人)つながりを吟味し、その血統を整理・編集すると、まず大化の改新の藤原鎌足に始まり、やがて平安の武将・藤原利仁(鎮守府将軍)から斎藤氏を経て長井(隼人佐)、そして井上へと連綿と続くのである。旗本井上分家初代の嫁は清和源氏・小笠原流の跡部氏、その分家6代目の当主井上多聞の嫁は清和源氏・源頼光流能勢氏、そして多聞の三男・井上熊蔵の嫁は清和源氏・源新羅三郎義光流の武田・伊沢氏、熊蔵の長男・収蔵の嫁は平氏・北条執権家・高時流の平野氏となる。
こうして井上分家の血脈を見てくると、江戸幕末期には源氏、平氏、藤原氏と武家社会のなかで千数百年研ぎ澄まされてきた武門としてのDNAがここに結実するのである。なかには仮冒があるかもしれないが、先祖の系譜として千数百年にわたる武家の歴史はたいへん凄いものである。ここ3年間集中して調べてきたが、女系図をたどると、どこの家にも同じような系譜があり、孔子の子孫が現在80万人はいるだろうといわれているのと同じことが私の身近なところにもあったにすぎない。
人間は社会的動物であり、兄弟は他人の始まりである。今回の私のご先祖探しは、細い細い糸で繋がった女系のご先祖を偲び、現在の自己がこの宇宙に存在することを心から感謝し、それを未来につなげて行こうではないか、と思った次第である。
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次の三頭波(老子の上善如水を意味する)は、コミュニティビジネス総合研究所のエンブレムである。
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 ☆上善如水
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