われ森鴎外の史伝にならい、わが家の女系史伝をなさんとほっす
吾輩もいよいよ60歳という世間の定年を前に、明治の文豪森鴎外もなした史伝・家伝を吾もなさんとほっし、いま流行の電子日記(インターネット・ブログ)にしたためた次第である。
その名も『伊沢蘭軒』森鴎外著ならぬ『伊沢内記の娘の嫁ぎ先、藤原北家利仁流・旗本井上家の女系図』細内信孝著なり。ご興味のある方はぜひお読みあれ!
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上記写真の冒頭に出てくる大猷院様とは3代将軍・徳川家光のことで、さらに中ほどの常憲院様は5代将軍徳川綱吉のこと。当時の旗本家は将軍様のことをこうして法号で著したものだ。
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さて吾輩から細い細い血脈を母方の女系、女系と遡ると4代前に旗本・井上家に繋がる。当方から6代前の当主・井上熊蔵利充(最高位役職は駿府武具奉行、西の丸留守居)の妻として伊沢内記の女(娘)が嫁いできたと井上家の家伝書にある。これはもしや森鴎外著の『伊沢蘭軒』の中に出てくる伊沢総宗家の交代寄合(旗本)の伊沢家ではないかとふと思った次第である。このことがきっかけで江戸幕府公式の系譜書、武鑑やら井上家の祖先書やら親類書など、いろいろ調べ始めると、次々に武家の歴史や家系、そして、その生活慣習が見えてきた。
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森鴎外も書いているように、旗本伊沢家は家伝によれば平安の武将・源義家の弟・源新羅三郎義光を祖先に持ち、かつ武田信玄、信繁の末裔を自称している武家の名門である。そして、3250石の伊沢家と500石の井上家(分家)の家格で果たしてつり合いがとれるのであろうかと少し疑問に思ったが、江戸幕府260年の旗本同士の婚礼は、どうもその石高だけではなく、ご先祖の武家としての伝統や格式、その系譜がものをいうらしいことが分った。
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*当方から女系で遡ると、写真の11代前の旗本井上別(分)家2代目の当主井上利實(本姓は藤原氏)につながる。彼が井上本家の井上(藤原)利盛より家系図(元は池田藩士斎藤弥三郎が持っていたものと、最後に記してある)を借り写したもの。井上姓の前は美濃の長井斎藤姓、本姓は利仁流藤原氏である。元禄3年正月は西暦でいうと1690年であり、まだ徳川光圀が水戸藩主であった時代だ。
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文献を検索していくとさらに興味深い記事を目にした。それは佐藤論文(1998) の「大名の隠居・家督願について」の中に大分臼杵藩5万石の11代当主稲葉氏の隠居に伴うお知らせ先に井上美濃守(本家井上利泰)と合わせて、分家井上熊蔵(当方から6代前)の名前が出てくるのである。稲葉氏と井上(長井斎藤)氏は美濃国で戦国時代から親戚関係にあり(佐藤論文ではそこまで触れていないが)、300年後の江戸後期までそうしたお付き合いを維持していたことは驚愕に値するものだ。
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また井上熊蔵の父・井上多聞利貞(当方から7代前)は、お勤めの最後に江戸城西の丸留守居、二の丸留守居を務めた。500石の家格ではこのポジションが最高位であり、恙なく勤め上げたことになる。あの火付盗賊改方(かしら)の長谷川平蔵が家禄400石の旗本であり、このクラスの旗本は現場の頭(かしら)を兼ねることが多かった。しかし役職につけないものは家禄のみの収入で小普請組に属した。戦のない時代、旗本の半分(旗本は5000家ほど存在した)は職のない状況だった。役職につくと家禄プラス500石~1500石が付加され、さらに関係先から届く中元や歳暮を加えるとその生活は格段に豊かになった。京都町奉行や長崎奉行になると一財産築くともいわれ、うまみのある役職だった。遠国勤務は平安時代の国司派遣から儲かる勤務の一つであったようだ。
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江戸時代の武家サラリーマンとしては立派なお勤めであったことがうかがい知れる。そうした父親の勤勉さと役職も息子熊蔵の婚礼に影響する。そして現代人は、今も昔もあまり変わりばえのしない生活・慣習を日本の良き伝統として脈脈と受け継いでいるのである。例えばお世話になった方に中元や歳暮を贈ることは季語にもなっているが、これも武家・官僚社会の慣習の一つである。庶民にまでそれが波及すると、人はこれを文化というが、江戸期のそうしたしきたりが現代人のつき合いのベースとなっている。
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井上家の家伝書よりいくつかの女系を拾い上げると、他家から嫁入りした女系の系譜は、清和源氏小笠原流の御使番の跡部刑部少輔良保の娘が分家初代の井上利長の妻として記載され、また同じく清和源氏頼光流(源頼光の家来に渡邊綱や坂田金時などが有名)の御先手組頭の能勢十次郎頼種(能勢妙見山が有名な能勢家の分家で家禄600石、あの長谷川平蔵の上司・指南役でもある)の娘が分家6代目の井上多聞利貞に嫁している。
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*井上分家の家伝書には井上多聞利貞の妻として能勢十次郎頼種の女(娘)が見える
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*西川著「新能勢物語」の能勢家系図に能勢十次郎頼種の女子が井上多聞利貞に嫁すとあり
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*井上多聞利貞が著した先祖書は清書され幕府に提出された。これはその写しであろう。井上家は番方(武官)の旗本であり、種田流の槍の使い手として代々その技を受け継いでいる。馬術や武術は武家の必須条件である。
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☆徳川譜代筆頭の井伊氏が治めた彦根城は、近畿地方の要の城である。石垣や城閣は石田三成の佐和山城から移築したものが少なくなかった。戦国期の城とはそういうものである(負けると丸裸にされ、勝者に再利用される)。
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☆JR安土駅前の織田信長像。安土城はかつて琵琶湖に浮かぶ壮大な平山城であった。この2月に天守閣跡まで登頂してきたが、そこからの遠望は想像以上に雄大な眺めであった。尾根線を利用した山城としては岐阜城にも類似している。
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(次回つづく)
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