岡山の閑谷学校に日本の社会教育の真髄を見る
CB総合研究所が運営する”町の学校”の今後の参考にしようと、時間を見つけて講演先から訪れた岡山県備前市の閑谷(しずたに)学校を視察してきた。
閑谷学校は、江戸前期の岡山藩主池田光政公が1670年にその設立を家臣の津田に命じ、講堂はその3年後の1673年に完成した庶民のための学校であり、岡山城の藩士のための学校と並立で設立したものである。
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校内を散策し、いくつか驚いた点があったので思いつくまま以下に列挙してみた(時間の関係で充分なヒアリングができなかったため、主観を交えた私見である)。
*釉薬を使用しない備前焼技法で作られた赤い瓦は重量感のある大屋根を演出している
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1)藩士のみならず、将来の村の幹部候補生(8歳~20歳)を養成した学校(町の学校の手本となる)である
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2)藩の財政と切り離し、学校田(所領は279石)や学校林を設けて学校運営の独自性を高めた(寺の寺領と同じ扱い)
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3)授業の内容は儒教(孔子)が中心であったが、読み書きはもちろんのこと、現代のリベラルアーツ的な教養面(世情、習字、漢学など)も教え、講義した
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4)1年間寄宿生活をして勉学に励む全寮制であった
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5)岡山藩内ばかりか、他領の一般子弟も受け入れた
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6)定員は1年間で50名ほどであった(以外に少ない?)
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7)講師は藩校と同じ人物があたった、とのことである。
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*講堂内は今でもしっかりしている。日本の木材の良さが活きている和の空間である
*構内の西洋芝は江戸期にはなかったものだろう
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8)330年を経ても、いまだに内外とも立派な講堂(国宝)である
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9)石塀をめぐらせ、学校はまるで城郭のようでもあった
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10)明治維新後も私立閑谷中学校として存続し、地域社会に人材を輩出した
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岡山県は、奈良時代に和気清麻呂の姉(和気広虫)が日本で最初の孤児院(孤児を養育した記録がある)を設けたり、明治期には石井十次が千人規模の近代的孤児院を岡山市に開設した。この閑谷学校もそうだが、社会教育事業に力を注ぐ歴史的な文化が古代からあるらしい。例えばその精神は、現在、倉敷市の倉敷中央病院や大原美術館などに繋がっている(これはあくまで筆者の感想である)。
*岡山県和気町の和気神社に建つ和気清麻呂像
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