戦国期は仕える主君の才覚で自分の将来が大きく浮き沈みした
私の好奇心は、わが家のご先祖探しから始まり、今は戦国・江戸期の武家社会の研究をしている。下剋上の戦国時代(室町時代の応仁の乱以降、大阪の陣まで)は、現代の我々が考えている武家社会とは、大きくかけ離れているように感じられることがある。
昭和の戦後のある時期(団塊世代が社会で活躍するころ、専業主婦が社会的に保証されている時期)形成された良妻賢母が良いとか、同じ会社に一生勤めるなどの価値感は、江戸時代の寛永から元禄期の価値観をベースにしたものといっていいだろう。
つまり経済成長を伴った社会経済の拡大期の考え方だ。それに対して現代は、昭和元禄を超えて6、7代将軍の時代であろうか。これから本気で大改革をしないと国民がほんとうに豊かに暮らせる社会システムが維持できない。江戸の元禄期の終わりころ、改革の着手として地方直し(じかたなおし)がときの幕府によってすすめられた。これは今の地方創生と同じ意味を持っている。
戦国時代の下級武士は上を目指して、豊臣秀吉のように主君をよく変えた。仕える主君の力量で自分の将来が大きく浮き沈みしたからだ。よって能力の劣る主君からはおのずと離れて行ったものだ。主君を数人変えることによってその眼力が養われ、やっと一人前の武士といわれた時代である。豊臣秀吉も明智光秀も、そうして領地拡大や地位を上げて行った。
また戦国武将の出世は、その妻次第であるともいえよう。秀吉の妻はおなじみのおねさま。前田利家の妻はまつ。山内一豊の妻は千代と、いずれも亭主の危機にその才覚を発揮し、問題解決の糸口を亭主に提供している。一言でいえば、機転の利くええ女房ということだ。
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当時は政略結婚のため、離縁や死別も多かった。秀吉の妹は兄によって無理やり離縁させられ、徳川家康に嫁した。なんとむごいことだろう。人の情もあったもんではない。そして江戸期には今よりずっと離婚率が高かった。相性の問題もあり、駆け込み寺もあり、つれあいについて、現代人が考えているより現実的であったのが江戸時代の人々である。
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*最近築年が判明し、国宝になった松江城。武家社会の生き方やその精神構造はもっと研究されてよいだろう。
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