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2016年12月15日 (木)

あなたの先祖にあの有名な歴史的人物がいるかもしれない

私の専門はコミュニティ・ビジネス(CB)による地域創生だが、一方自称歴史学者でもあり、全国各地をCB講演などで訪れるたび、各地の名所旧跡にはできるだけ立ち寄ることにしている。

細内の家は平民の出であり、日光市足尾の磐裂神社の縁起には大同3年(808年)創建時のメンバーに細内の名前が出てくるがはっきりとは分らない。1200年前まで遡れれば、ほんとはすごいことだが関係古書を幾たびかの火災で紛失し、言い伝えが錯そうしている 。残念なことである。

閑話休題

母方の明治生まれの祖母から子供の頃、就寝前によく聞かされた話しに、祖母の母親は、江戸幕府旗本の井上家(本姓は藤原氏、家紋は撫子)で、明治のはじめに祖母の実家である栃木市の造り酒屋に嫁に来たとのこと。
そこで私も50半ばをすぎたころ祖母の話しを確かめようと、国立公文書館の旗本諸家譜(国として江戸時代の公文書も一般公開している。そしてそのPDFも簡単にインターネットで引き出せる)をひも解いてみた。後日確認すると井上家で見せてもらった家伝家譜に関する資料とほぼ同じであった(井上家のものは元資料だからさもありなんである)。
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祖母の母親は、私から3代前にあたり曾祖母となる。彼女を通して武家の血筋が入ることによって、平民の私にも戦国武将とのつながりができることを発見した(明治期に武家の女子を嫁にもらえが有力商家で流行ったらしい)。
これも6次の隔たりの法則 と同じであり、男系だけではなく、女系も調べれば、だれにでもこうしたことが起こり得るのだ。最後はアダムとイブにつながるのかもしれない(笑い)。
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江戸幕府に提出された8代前のご先祖井上多門の旗本井上家・先祖書の控えである
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一方母方の実家は城下町の商家であった。4代前の当主が中央に座る(写真は明治末期ごろ。当主が武家の血をひく嫁を孫(私の祖父)の嫁(私の祖母)にもらったのが小生へとつながっている。

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以下に、曾祖母の実家・旗本井上家の物語を紹介する。
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当ブログで先に紹介したものは今回なるべく省くことにする。
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よく調べて見ると、井上家は初代長井隼人佐道利(斎藤龍興の家老、家紋は斎藤氏と同じ撫子)を家祖(15代前のご先祖?)とし、美濃国兼山城18万石の城主(関城主も兼ねる)であったが、織田信長に敗れ、長井隼人佐の息子3人はその名字を井上(長井の井の字を上にあげて井上とする、旗本家井上分家でその名字の由来を聞く)に変え、その旗下に入る。
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☆過去帳には、斎藤越前守利永を初代として記載されている。左端には長井隼人正(佐)の室(妻)が記載されている。
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そして長井隼人正の3人の息子はやがて織田信長、豊臣秀吉の馬廻り役(親衛隊)となる。現在、NHK大河ドラマ真田丸の真田信繁の同僚として、上の兄弟二人は秀吉の親衛隊・馬廻り役(黄母衣衆)として歴史書に見つけることができる。
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長井道利は斎藤道三の弟、もしくは庶子という説もあるが、美濃守護代の長井・斎藤氏の系譜をひく長井長広の子と言う説もあり、その真偽は不明である。
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しかし長井道利の兄弟姉妹には、信長の妻、濃姫や筒井順慶の妻、真田丸で有名になった公家の菊亭晴李の妻(真田信繁の母がもし菊亭晴李の娘なら、真田家と井上家は遠い親戚になる)、明智光秀の家老・斎藤利三の妻、稲葉一鉄の息子で豊後臼杵藩初代藩主の稲葉貞通の妻(その系譜が有力公家に入り、現代の皇室にも繋がっていく)、そして斎藤義龍など、戦国大名や有力武将の妻など歴史上の有名人がそうそうと並ぶ。
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また江戸初期の天海らによる紫衣事件として、同僚の沢庵和尚と一緒に流された京都大徳寺住持の玉室宗珀和尚は長井道利の子であると、江戸幕府公文書の旗本諸家譜(井上家系譜)に記載されている。
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玉室宗珀は臨済宗大徳寺芳春院の開祖である。旗本井上家の菩提寺は今でも東京渋谷区広尾の祥雲寺(臨済宗大徳寺派)にあるが、その過去帳(上記の写真)には長井道利の妻(稲葉宗張の娘とある、稲葉一鉄の一門か)の木造が京都大徳寺の芳春院(前田家の創設)にあると記載されている。これは彼が長井道利の子である証であると私は推察している。
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そして長井道利の三男・井上時利は摂津国の代官であったが、関が原では織田秀信(信長の孫、三法師)の西軍につき領地没収で浪人となり、大坂の役では豊臣秀頼方として大坂の陣の冬・夏配置図に侍大将の一人として、その名が歴史書等に収められている。勇猛な武将であった。
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戦後、井上時利の子・利仲は、二条城で徳川家康に会い、許されて徳川秀忠の直参旗本となる。この家が明治維新まで井上の本家(美濃守)・分家に分かれて続くのである。井上両家とも500石の家格ながら、大目付、目付、京都町奉行、駿府城武具奉行、作事奉行、小納戸、西の丸留守居、二の丸留守居などの役職を務めている。私の祖母の母親は井上分家の出である。
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旗本井上家初代の井上利仲の母は、織田信長配下の赤座長兼の娘であり、その赤座氏の妻は信長の親戚筋である守護代織田信安の娘である。これで赤座、織田の血筋が井上家に入ることになる。
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また大河ドラマ真田丸の主人公真田信繁の上司、秀吉の秘書室長であった七本槍の平野権平は大河ドラマではひょうきんな役回りで描かれているが、賤ケ岳の七本槍で唯一大名になれなかった一徹ものである。その平野家から幕末時に井上分家に嫁してくるのが、私から5代前のおばあさんにあたる人である。
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平野家は鎌倉幕府北条執権家の北条高時の子孫を標榜しているが本当かどうかわからない。北条高時の遺児北条時行は信濃国から諏訪氏等の援軍を得て、武蔵女影ケ原で足利勢に勝利し、一時鎌倉の地を回復したが、その後駆けつけた足利尊氏に敗れている(中先代の乱)。
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私から4代前のおばあさんは高祖母にあたるが、この人の写真を旗本井上家分家宅で撮らせていただいたが、彼女は野州壬生藩鳥居3万石の筆頭御典医・匂坂氏(漢方医、二十人扶持)の娘である。しかしその主人である井上家分家の当主井上利明の写真は残っていないという。西郷隆盛と同じく、昔の人は写真を撮ると魂を吸い取られると思っていたらしい。だから今でも神社の本殿は、写真に撮らない方がよいといわれている。
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井上辨次郎(利明)は、私から4代前の高祖父にあたる。利明は元領地のあった陣屋・屋敷で明治5年に寺子屋をひらく。それが現在地元にある小学校へとつながっていく。
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それにしても黒船ペリーが浦賀に来なければ、徳川幕府の崩壊はなく、旗本井上家も存続し、井上家の娘(曾祖母)も造り酒屋に嫁に来ることもなく、かつ細内家が明治維新時に日光のお山から降りてくることもなく、よって私も存在しないことになる。
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歴史にもし?は禁句だが、人生何が繫がるかわからないものである。
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☆これもご縁、あれもご縁、ご縁は本当に大切だ。
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2016年12月韓国完州郡の招待講演時に訪問した完州CBセンターにて

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2010年7月韓国ソウルのカンファレンス・ハウスにて、招待講演時に使用する
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1998年米国シリコンバレーサンノゼ市の女性起業家を訪問する
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☆あのクローズアップ現代にも、地域コミュニティ、コミュニティ・ビジネスの専門家として出演する
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☆私は、テレビに、地域づくり、コミュニティの専門家、CBの提唱者として出演することがある
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