読書家与謝野馨氏を偲ぶ
明治の後期に「君死にたまうことなかれ」と戦場に向かう弟への愛情を歌にした女流歌人与謝野晶子の孫にあたる政治家与謝野馨氏が逝去された。私には政治家というよりも読書家としての与謝野馨氏の印象が強い。
彼は本を求めて神田神保町界隈をよく散策されていたらしい。私も本好きでよく神保町の古書店へ足げく日参したが、一度だけ与謝野氏と遭遇したことがある。
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明治の後期に「君死にたまうことなかれ」と戦場に向かう弟への愛情を歌にした女流歌人与謝野晶子の孫にあたる政治家与謝野馨氏が逝去された。私には政治家というよりも読書家としての与謝野馨氏の印象が強い。
彼は本を求めて神田神保町界隈をよく散策されていたらしい。私も本好きでよく神保町の古書店へ足げく日参したが、一度だけ与謝野氏と遭遇したことがある。
ご先祖からの赤い糸が連綿と続いているから自己が存在する。
そんなことを意識し始めたのは、2011年3月11日の東日本大震災以降である。
ここ5年くらいで分かったことの一つに父方の姓、”細内”を日光市の公式ホームページで見つけたことだ。西暦1315年に日光中禅寺から足尾への移住である。
2015年は、ちょうど”細内(細内の家紋は梅鉢と横木瓜。この2つの家紋は藤原北家の家紋ともいわれる)”の日光足尾郷への移住700年にあたる記念の年であった。一説には細内は細納に通じ、細納はサイトウとも読める。実は斎藤なのかも知れない。足尾町原地区には中世から斎藤と細内しか住んでいない。明治維新前後に細内の郷外への流失が続いたという。当方のご先祖も県都宇都宮に集団移住した一人だろう。
*日光市の公式ホームページより抜粋
承和3(836)年 |
中禅寺領が日光神領と改称された。 |
正和4(1315)年 |
足尾の5姓(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)が足尾に移住したと伝えられる。 |
平家物語の斎藤実盛は、藤原北家利仁流ともいわれ、日光市足尾の斎藤家はその末裔ともいわれている。
これはあくまで私の推測だが、細内姓は足尾の歴史やその家紋などからも斎藤実盛に関係する武蔵斎藤氏に繋がり、また母方の旗本井上家(家紋なでしこ)に繋がる系譜は寛政譜によれば美濃斉藤氏となり、私の代で武蔵と美濃の両斎藤家の血脈がつながることになる。不思議なご縁だ。
*
旗本井上家に伝わる幕末の親戚書。逸見家、伊沢家、山岡家、松平家、榊原家とそうそうたる徳川の親衛隊が名前を連ねている。
井上家からは、大目付、道中奉行、作事奉行、京都町奉行、目付、小十人頭、御納戸役、駿府武具奉行、西の丸留守居、二の丸留守居などを輩出している。
追記:2020年4月1日にこの内容が書籍になりました⇒http://www.hosouchi.com/machischool.html
コミュニティ・ビジネスといえば、地域住民が地域の問題にビジネスの組織をもって取り組み、地域資源を活用しながら自ら問題を解決しようとすることであるが、その学際的な本質は、コミュニティの共同体論、地域の活性化論、社会的起業論、NPO論、ボランティア論、社会参加論などの総合的な視座から成立している。
コミュニティ・ビジネスにおいて現場で主役となる人々は、団塊世代の退職者や子育てを終えた母さん、そして障がい者や失業者、子育て中の母さんであり、みんな働きたいと願ってきた人々である。そうした彼らを牽引するリーダーは“社会的起業(企業)家”とも呼ばれている。
社会的起業(企業)家とは自己実現をしながら社会を変革して行こうとするベンチャー精神を持つ起業家をいうが、最近若い起業家をそうした呼び方にすることが少なくない。しかし、それはけっして若い起業家の専売特許ではない。サミエル・ウルマンの言葉を借りれば、青春という“熱い心”と成し遂げようとする“実行力”を持ち合わせれば、それは年齢や性別を問わないものだ。
コミュニティ・ビジネスは、地域の諸問題に地域の仲間と一緒に取り組み、ビジネス組織を持って中長期に取り組んでいくものである。1~3年という短期間で地域の困った問題が解決するものではない。息の長い取組みであり、郷土愛をもって新しく創っていくものである。
その先人を挙げれば、長野県小川村の㈱小川の庄の権田市郎さん、栃木県足利市の社会福祉法人こころみる学園・有限会社ココファームワイナーの川田昇さん、滋賀県長浜市の㈱黒壁の笹原司朗さん、愛知県長久手市の愛知たいようの杜・ゴジカラ村㈱の吉田一平さんなどである。
私は、そうした郷土愛を持って地域を元気にする事業、すなわちコミュニティ・ビジネスに取り組んできた彼らを尊敬の意味も込めて”社会(的)企業家”と呼んでいる。
<生産性新聞への寄稿>に一部加筆して作成>
アートは見る人の心を温かくする
☆彡
私は、お受験で入った公立の幼稚園から、父の転勤で曹洞宗の幼稚園へ転園した。その時から門前の小僧となり、やがて大人になると、東京世田谷の曹洞宗寺院の座禅会に日参するようになった。