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2017年5月23日 (火)

私のご先祖探しはつづく

ご先祖からの赤い糸が連綿と続いているから自己が存在する。
そんなことを意識し始めたのは、2011年3月11日の東日本大震災以降である。
ここ5年くらいで分かったことの一つに父方の姓、細内を日光市の公式ホームページで見つけたことだ西暦1315年に日光中禅寺から足尾への移住である。

 

2015年は、ちょうど細内(細内の家紋は梅鉢と横木瓜。この2つの家紋は藤原北家の家紋ともいわれる)の日光足尾郷への移住700年にあたる記念の年であった。一説には細内は細納に通じ、細納はサイトウとも読める。実は斎藤なのかも知れない。足尾町原地区には中世から斎藤と細内しか住んでいない。明治維新前後に細内の郷外への流失が続いたという。当方のご先祖も県都宇都宮に集団移住した一人だろう。

*日光市の公式ホームページより抜粋 


 

承和3836)年

 

 

中禅寺領が日光神領と改称された。

 

 

正和41315)年

 

 

足尾の5姓(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)が足尾に移住したと伝えられる。

 
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*斎藤別当実盛の建立した聖天院

平家物語の斎藤実盛は、藤原北家利仁流ともいわれ、日光市足尾の斎藤家はその末裔ともいわれている。

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また母方の3代前に藤原北家の利仁流を名乗る直参旗本(家紋は撫子)の娘が嫁いできた。私の曾祖母の一人である。明治の中ごろ、士族の娘を嫁にもらうのが商家では一つの流行であった。当時地方の酒造家に500石の元・直参旗本の娘が18歳で嫁いでくる。6人の子供をもうけるがその長女が私の祖母であり、明治生まれの祖母は宇都宮の県立女学校を出て、すぐに干瓢問屋(家紋は立ち沢瀉)へ嫁いでくる。家禄500石といえども幕府の規定では家臣10人を養い、当主を入れて11人のいわば中小企業的な存在であった。勤務先の江戸城へは騎馬にて部下3人と一緒に登城した。体面を重んじる武士の家計は幕末時どこも苦しかったようだ。
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そんな赤い糸のつながりの中で私は生を受け継ぎ、いま日本各地を地方活性化の伝道師として歩きまわっている。
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これはあくまで私の推測だが、細内姓は足尾の歴史やその家紋などからも斎藤実盛に関係する武蔵斎藤氏に繋がり、また母方の旗本井上家(家紋なでしこ)に繋がる系譜は寛政譜によれば美濃斉藤氏となり、私の代で武蔵と美濃の両斎藤家の血脈がつながることになる。不思議なご縁だ。

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旗本井上家に伝わる幕末の親戚書。逸見家、伊沢家、山岡家、松平家、榊原家とそうそうたる徳川の親衛隊が名前を連ねている。

井上家からは、大目付、道中奉行、作事奉行、京都町奉行、目付、御納戸役、駿府武具奉行、西の丸留守居などを輩出している。

 

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