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2017年6月 2日 (金)

戦国武将長井道利の義父?稲葉良籌について

細内所長の歴史研究の対象である旗本井上家の直接のご先祖にあたる美濃の戦国武将長井道利(?-1571)の義父?稲葉良籌について、下記写真の画賛の現代語訳が判明した。長井道利の妻は遠藤氏の未亡人を記載しているものもあるが、長井道利が織田信長に稲葉山城を追われてからは、遠藤氏の未亡人は故地の郡上八幡に帰っている。その後、稲葉良籌の娘と一緒になったものと考える。

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京都大徳寺の高桐院にある重文の稲葉良籌像。画賛は当時の大徳寺住持古嶽宗亘(1465-1548)によるもの。
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当方の依頼により京都高桐院の住職さんから直接ファクスでその画賛の内容が寄せられた。
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臨済宗大徳寺派では、稲葉良籌を稲葉宗張とも表記し、戦国武将長井道利の妻は、大徳寺派の過去帳には稲葉宗張の娘(女)と記載されている。
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上記写真は、稲葉良籌の画賛の現代語訳だが、これでも稲葉氏の誰に当たるか、今でも不明である。稲葉一鉄(稲葉藩藩祖の父、一鉄の父と兄5人が浅井氏との戦いで1525年に戦死したため、出家していた六男の一鉄が家督を相続した)の親族であることは間違いないだろう。
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1526年にこの画賛をしたためた大徳寺住持の古嶽宗亘の記録から類推するしかないだろう。室町幕府の権威は長引く応仁の乱で大きく失墜しており、同年には徳政令が出されている。
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前述ブログの佐藤論文には、幕末時に稲葉藩主の隠居連絡を、長井道利の子孫旗本井上美濃守家、別家井上分家(井上熊蔵は当方より6代前の先祖)とともに、その使者が派遣されていることからも、大名稲葉家と旗本井上両家は親戚関係を300年以上も続けていたことになる。それは旗本井上家の初代井上利義(利中)の祖母が稲葉良籌の娘(女)ではないかと私は見ている。
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稲葉良籌は、美濃国稲葉氏の誰に当たるのか、お分かりの方はご教示くだされ。
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