岡山県倉敷市の楯築弥生墳丘墓の謎に迫る
細内所長は、地域づくりという仕事柄、全国各地の古墳や墳丘墓、古代遺跡を数多く見歩きしてきた。
私は、北海道旭川の博物館では、アイヌ文化と北海道の土偶に触れ、青森県では、三内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡、福岡県吉井町(現・うきは市)では、筑後川添いの月岡古墳や珍塚古墳の壁画を拝見し、奄美の徳之島では、線刻石遺跡を案内され、吉備国では、造山古墳、作山古墳、両宮山古墳を案内してもらい、毛国(栃木・群馬)では、侍塚古墳、摩利支天古墳や太田天神山古墳、観音山古墳などに登頂し、宮崎の西都原古墳群では、借りた自転車ですべての古墳を巡回し、さらには大阪堺の大仙陵古墳では、その外縁部を歩いて一周し、その大きさを自ら体感したことを矜持としている古代史研究家である。
今回はじめて、岡山県倉敷市にある楯築遺跡(弥生後期の墳丘墓)を訪ねる機会を得た。しかも偶然にも墳丘墓の管理をされている方(自治会長さん)に転んでケガをし難儀しているところを助けてもらい、その墳丘墓と収蔵庫を案内されて、実物のご神体・亀石や発掘された朱を見せてもらうことができた。まさに怪我の功名とはこのことである。不思議な体験である。
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ここの亀石は、実は2体あり、一つが収蔵庫にしっかりと保管され、もう一つの破壊されたものが整理されて岡山大学にあった(翌日岡山大学を訪ねた)。大王の木棺を上下の亀石で守っていたのである。
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収蔵庫の中にあった不思議な亀石
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*収蔵庫に保管されている朱、桐の小箱に分けて保管されていた。発掘時に32キログラムも出たという朱は、桐箱に納められていたが、小箱でもかなり重いものである。この朱(水銀)は中国製?であるといわれている。
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当日はカンカン照りのなか、JR吉備津駅から歩いて現地入りしたが、丘の上にある墳丘墓の入り口で地神さまと水神さまに偶然にも出会った。これらの石碑を見て、現代社会の地域神であるが、1800年前の弥生後期の神様・すなわちご神体が亀石ではないかとふと感じた。そして、この世とあの世を結ぶ結界の目印がご神体・亀石の役割ではないかと思った次第である。
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楯築遺跡からは、2つの亀石が出ているが1つは綺麗な状態の孤帯石・ご神体、もう一つは多くの小片に破損された亀石(岡山大学で本物を見ることができた)だ。
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現地で見せていただいた綺麗な亀石
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これは私の直感だが、亀石は前述の地神さまと水神さまの考えの源流(1800年前)ではないかと思っている。地神さまは小片に分解され地中に埋蔵された、そして地上に安置された亀石は水神さまとして、後世の楯築神社のご神体として大切に保管・安置されたのではないか、そう思いを強くした次第である。
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