マンションと老人ホームが近接する新しい時代
左側の大手不動産会社開発のマンション(付設の図書室を設置)と老人ホームが近接している事例。右側の3階建てが大手介護会社の老人ホーム。こうした開発事例が最近増えている。
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左側の大手不動産会社開発のマンション(付設の図書室を設置)と老人ホームが近接している事例。右側の3階建てが大手介護会社の老人ホーム。こうした開発事例が最近増えている。
評判の良い老人ホームを見学してきました。最近、仕事柄老人ホームを積極的に見学しています。
新宿駅から800メートルのところに当社・CB総合研究所(渋谷区千駄ヶ谷5丁目)があるため、通勤時に南新宿、サザンテラス、タイムズスクエアを毎日歩いているが、南新宿はまさに国際通りの活況を呈している。
昨年12月に私は韓国の地方都市で開催された国際フォーラムへの招聘講演があり、11月の招聘講演(こちらは韓国の政府系財団主催)に続いて、同じナショナルフラッグの飛行機の同じ便に搭乗し、羽田からソウルに向かった。会場も近かったので宿泊するホテルも同じホテルに2泊3日の日程で取り、同じ部屋に滞在した。つまり前月の訪韓のサクセスストリーのイメージ通りに12月の訪韓も同じ行動をとることで極力ストレスを減らし、仕事を無事乗り超えたのである。
当社CB総合研究所(渋谷区千駄ヶ谷5丁目)より徒歩10分くらいのところに日本将棋会館(千駄ヶ谷2丁目)があり、その隣接地に鳩森八幡宮と千駄ヶ谷の富士塚がある。その2点を結ぶコースが、私の散歩、参拝、登攀の3点セットである。
六尺の大男といえば、身長180㎝の男子のこと。 西郷どんも、坂本はんも、福澤諭吉さんもみんな六尺の韋駄天だった。 当時日本男児の平均身長は153㎝くらいだから、庶民は彼らを見上げるようにして話をしていた。 二宮尊徳さんも六尺の大男だった。 幕末の一大事を成し遂げた人物は、おおむね韋駄天の大男だった。 しかし幕臣勝海舟は150cmくらいの小男だった。 そういえばナポレオンも小男である。
美濃の戦国武将長井道利の長子・長井道勝は、またの名を長井忠右衛門といい、主家の斎藤家滅亡後は苗字を井上に変え、井上忠右衛門道勝と名乗った。いわゆる井上3兄弟の長男である。
岡山大学の倉地先生を訪ねたその後、国会図書館から取り寄せた書誌「岡山藩家中諸士家譜五音寄1~3」(倉地編集)によれば、井上道勝は長良川の戦いで祖父(伯父?)の齋藤道三を生け捕りにしようとしたが、取り押さえ損ない、あとから駆け付けた小牧源太に手柄を横取りされた。
その落胆のため高野山に引きこもり世をはかなんだが、豪傑がゆえに織田信長より召し出され、その後、信長配下の池田輝政の客分や太閤秀吉の親衛隊黄母衣衆の一人として豊臣家に仕えた。
井上道勝の子、長井新太郎は信長の子・織田信忠に仕えたが、本能寺の変で信忠と共に二条で討ち死にしている。
井上道勝の娘(夫・纐纈六右衛門)の子・纐纈三十郎が跡を継ぎ、その後熊田所左エ門、長井権助と続き、岡山藩が家中諸士家譜の作成時(1690年頃?)に上述のような先祖書を提出したが、途中で纐纈、熊田姓などが記載され、養子?女系等でつながった可能性が高い。
しかし、その子孫は1819年の長井正之進をもって井上道勝(長井忠左衛門)の家系は途絶えて(出奔した可能性大?)いる。そうしたことが岡山藩の池田家履歴略記に記載されている(下記参照)。
☆池田家履歴略記 上巻・下巻
*池田家履歴略記 上巻・下巻
*池田家の公式記録書(池田家履歴略記)に載っている長井忠左衛門のこと
*木像は、権現様こと、徳川内府(織田信長は織田右府)、東照大権現・源朝臣家康
☆彡
当方命名のCB地域資源BOX(特産品のショーケース)が設置されている愛媛県松山市(人口51万人、このクラスの中核都市は他に宇都宮市、姫路市などがある)の松山全日空ホテル1Fのショッピングモールで、砥部焼の作家である大東アリンさんに出会った。
最近よく目にすることの一つに地域資源BOX(特産品のショーケース)が、地方の交通要所の結節点に設けられていることだ。
高梁川か?
愛媛県へ地域づくりの講演や講座の仕事で行くと、講演会場等でよく宇都宮さんというお名前を見かける。
*宇都宮市のランドマークでもある大谷石のキリスト教会
西予市宇和町には犬養毅元首相はじめ、多くの著名人が宿泊した旅館がある
西予市宇和町の造り酒屋・宇都宮酒造も宇都宮さんが経営している
米どころの造り酒屋・宇都宮酒造は千鳥が逸品である