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2017年9月15日 (金)

日本史オムニバス、長井忠左衛門のこと

六尺の大男といえば、身長180㎝の男子のこと。 西郷どんも、坂本はんも、福澤諭吉さんもみんな六尺の韋駄天だった。 当時日本男児の平均身長は153㎝くらいだから、庶民は彼らを見上げるようにして話をしていた。 二宮尊徳さんも六尺の大男だった。 幕末の一大事を成し遂げた人物は、おおむね韋駄天の大男だった。 しかし幕臣勝海舟は150cmくらいの小男だった。 そういえばナポレオンも小男である。

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*東京墨田区にある能勢の妙見山にある勝海舟像(妙見さんは旗本能勢家の屋敷内にあったもの)
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下野国足尾郷は江戸幕府の銅山直轄地であったが、幕末のころ銅の産出が枯れ、天保の飢饉の煽りも受け、農民(当時は住民といわず農民といった)の流失が相次いだそうだ。明治10年古河市兵衛(古河財閥の祖)がその銅山を安価で明治政府から払下げを受け、その後、銅の大鉱脈を発見し、古河は財を成していく。と同時に、わが国は、近代国家として殖産興業、坂の上の雲を目指して躍進が始まる。
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その歴史の1ページを栃木県にある稲荷神社から推し量ることが出来る。現在の日光市足尾町切幹の稲荷神社(元は京都伏見稲荷から分祀か?)から分祀された宇都宮市西川田町996の稲荷神社(石塔から1846年ころの創建か)である。
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それは足尾からの農民移住がもたらしたもので、幕末時に足尾郷原集落の農民数名が新天地の下野国河内郡西川田村(現在の宇都宮市西川田町)に移住し、新田開発を行い、そこに故郷足尾の稲荷神社を勧請した?のである。
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移住した農民の戸籍簿を調べて見ると、1854年に移住先で子供が生まれている。開墾地での最初の子供である。
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こうして江戸幕府の威信体制が崩れ、西洋文明を積極的に取り入れた薩長土肥の近代国家を目指した”ご維新”が始まるのである。
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*大魔神は古代・古墳時代の武人埴輪がモチーフ
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*戦国時代創建の城は戦闘城で、カラスのように黒の場合が多い

美濃の戦国武将長井道利の長子・長井道勝は、またの名を長井忠左衛門といい、主家の斎藤家滅亡後は苗字を井上に変え、井上道勝と名乗った。いわゆる井上3兄弟の長男である。

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国会図書館から取り寄せた書誌「岡山藩家中諸士家譜五音寄1~3」(倉地編集)によれば、井上道勝は長良川の戦いで祖父(伯父?)齋藤道三を生け捕りにしようとしたが、取り押さえ損ない、あとから駆け付けた小牧源太に手柄を横取りされた。

その落胆のため高野山に引きこもり世をはかなんだが、豪傑がゆえに織田信長より召し出され、その後、信長配下の池田輝政の客分や太閤秀吉の親衛隊黄母衣衆の一人として豊臣家に仕えた。

井上道勝の子、長井新太郎は信長の子・織田信忠に仕えたが、本能寺の変で信忠と共に二条で討ち死にしている。

長井新太郎の子?、纐纈六右衛門から、纐纈三十郎、熊田所左エ門、長井権助と続き、岡山藩が家中諸士家譜の作成時(1690年頃?)に上述のような先祖書を提出したが、途中で纐纈、熊田姓などが記載され、養子?女系等でつながった可能性が高い。

しかし、その子孫は1819年の長井正之進をもって井上道勝(長井忠左衛門)の家系は途絶え(出奔した?)ている。そうしたことが岡山藩の池田家履歴略記に記載されている(下記参照)。

池田家履歴略記 上巻・下巻

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*池田家履歴略記 上巻・下巻

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*池田家の公式記録書(池田家履歴略記)に載っている長井忠左衛門のこと

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*木像は、権現様こと、徳川内府(織田信長は織田右府)、東照大権現・源朝臣家康

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