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2017年9月 2日 (土)

愛媛県はなぜ宇都宮さんが多いの?そして駅弁の豊富さで地域力を知る

愛媛県へ地域づくりの講演や講座の仕事で行くと、講演会場等でよく宇都宮さんというお名前を見かける。

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*宇都宮市のランドマークでもある大谷石のキリスト教会

 

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西予市宇和町には犬養毅元首相はじめ、多くの著名人が宿泊した旅館がある

 

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西予市宇和町の造り酒屋・宇都宮酒造も宇都宮さんが経営している

 

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米どころの造り酒屋・宇都宮酒造は千鳥が逸品である

 

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大洲は水郷とNHK朝ドラ”おはなはん”の町である
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愛媛県には仕事で10数年前から訪問しているが、宇都宮さんというお名前は、越智さん、清家さん、河野さん、兵頭さんと同じくらいに遭遇する名前だ。愛媛県は宇都宮さんの一番多い県である。
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なぜ私が宇都宮さんにこだわるかというと、宇都宮市生まれだからである。しかし私には宇都宮市内で宇都宮さんに遭遇したことはない。約1000年前の前九年後三年の役のとき、戦に随行した藤原宗円が宇都宮二荒山神社の社家に任命されてから発生した(仮冒により、本来は中原氏、毛野氏の出とも言われる)といわれる宇都宮さんだが、さらに源氏の平家討伐によって、源頼朝から当時の御家人宇都宮氏が西国の守護、地頭に任命され、その次男、三男等が派遣され、それによって子孫が増加・拡大したという。大分・豊前にも宇都宮氏の子弟が派遣され、その後400年にわたり豊前を支配したが、豊臣秀吉配下の黒田長政らによって滅亡した。
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愛媛県大洲市の大洲神社には宇都宮二荒山神社が合祀されている。これは、当時の伊予守・宇都宮家当主が本貫地下野国宇都宮の二荒山神社から勧請したものである。
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こうしたことは、よくあることで、例えば宇都宮市西川田町996の稲荷神社は、足尾町の切幹にある稲荷神社から勧請したものであるという(付近には幕末時に日光市足尾町から移住してきた者たちが住むという)。その足尾のお稲荷さんも、実は京都伏見の伏見稲荷さんから勧請したものだろう。こうして名前も神社も人々の移住によって拡大発散していくものだ。
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宇都宮市は、川上澄生をはじめとする創作版画の町
大正モダンの流れから始まった栃木県河内郡姿川村(戦後の昭和の大合併で宇都宮市になる)の版画誌、創作版画家の川上澄生も参加した日本初のコミュニティ版画誌・『村の版画』


『村の版画』は、当時栃木県河内郡姿川村の姿川中央小学校の教員らが中心となって制作したもので、川上澄生(当時宇都宮中学校英語の教師)が指導にあたった。川上の家は宇都宮市郊外の姿川村西川田町の日光線鶴田駅前(川上は自宅を朴花居と称する)にあった。 ⇒http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-a71d.html
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*かつて宇都宮氏が納めた伊予大洲

 

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*大洲は鵜飼の町でもある

 

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*松山と岡山を結ぶ特急アンパンマン号

 

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*松山市内を走る路面電車

 

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☆岡山の最新鋭路面電車MOMO

 

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☆山陽新幹線岡山駅の存在意義は、写真の駅弁の豊富さにも表れている(松山駅は残念ながら、駅弁屋?と言われる人が一人ホーム脇で営業していたに過ぎない。地域経済の規模を推し量るには、こうした庶民的視点も大切だ)
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岡山と松山はどちらも最後に山が付き、町の雰囲気が似ている岡山池田藩と松山松平藩であるが、幕末時の対応は岡山藩の方が一枚上手だったようだ(池田藩は関が原でも東軍につき勝ち組へ、時代の流れを見る目があると推測)。薩長土肥と同じ様に岡山県岡山市と県名に岡山が残されている。その影響が駅弁の豊富さにも影響している。
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