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2017年11月 4日 (土)

小説家司馬遼太郎が著したスズカケの木の歴史観は終わった

1945年の夏、福田定一青年を癒しの世界に導いたのは、栃木県佐野市で見かけた1本のスズカケの木であった。

司馬遼太郎こと福田定一青年(当時22歳・少尉)は、当時所属していた戦車部隊が駐屯していた栃木県佐野市の植木国民学校で終戦を迎えた。その校庭に生えていたスズカケの木を眺めながら、どうして日本は戦争を始めたのであろうか?日本人はバカな民族ではないはずと自問自答を繰り返しながら、幕末、明治維新以降の日本の歴史を鑑みながら、歴史小説家として、戦後の日本社会の矛盾と対決しながら、孤軍奮闘、必死に生き抜いてきた。

そのことは、自宅を改装した東大阪市にある司馬遼太郎記念館の福田定一の足跡を見れば分かる。

2017年の春に佐野市の植木小学校校庭にあった、そのスズカケの木は倒木の恐れがあるため、という理由によりついに伐採された。

私はそのことを聞くにつけ、これにて福田定一青年こと司馬遼太郎という偉大な小説家が著した一つの日本近代の歴史観が終わったような気がした。いや幕を下ろしたのである。

いま高校の歴史教科書から坂本龍馬の名前が消える方向にあるという。司馬遼太郎が広めた龍馬というわが国近代化の歴史観は、残念ながらその役割を終えようとしている。

それほど今という時代は、インターネット・メディアの発達と世界的な異常気象により、過度な緊張関係をもたらすと同時に、人々はそれに対し、ナーバスな緊張感をもって新しい時代を切り拓こうとしているようだが、貧富の格差はますます広がるばかりだ。

司馬遼太郎こと福田青年は、そうした今の時代をどう思うであろうか、ぜひ本人に聞きたいものである。

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東大阪市にある司馬遼太郎記念館は安藤忠雄の設計

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植野小学校にあったスズカケの木の2代目が、東大阪市の司馬遼太郎記念館で今もその命脈を受けつないでいる

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*司馬の歴史観と安藤の設計思想がうまくマッチングしているようだ

*私は、数年前、神戸市社協での講演会の帰りに東大阪市まで足を延ばし、初めて司馬遼太郎記念館を訪問した。その場に居合わせた記念館の友の会会長さんと名刺交換をし、彼らの司馬遼太郎への思いを確認した次第である。

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司馬遼太郎の書斎前

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このアプローチが心地よい

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司馬遼太郎記念館は静かな住宅街の一角にある

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