将軍秀忠妻お江と親戚関係にあった井上時利
歴史好きな細内所長のよもやま話
旗本井上家 http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-da30.html の続編
☆彡閑話休題
織田信長の孫、三法師こと織田秀信(美濃国の稲葉山城を拠点とする)は、1600年関ヶ原で豊臣方の西軍についた。
そのため戦後、多くの美濃国人衆は織田秀信についたため徳川家康の裁定で領地を失い、浪人となったものは少なくなかった
☆過去帳の一部
歴史書では長井道利が一般的だが、旗本井上家所蔵の関係資料では、忌み名の”利”は最初にくることが多く、長井隼人正利道となっている。齊藤山城守のみ正利で”利”が下についている。
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斉藤道三の庶子・長井隼人正道利(美濃齊藤家の3代目齊藤龍興の家老として最後まで織田信長に抵抗する)の息子、井上3兄弟も主家齊藤家が信長に滅ぼされてから、苗字を長井から井の字を上にあげて井上に改名し、その後織田信長、豊臣秀吉、秀頼に仕えた。3兄弟の長男井上道勝は秀吉の黄母衣衆の一人といわれた。次男の井上頼次は大坂冬の陣で豊臣方の鉄砲隊長として討ち死したが、今回は井上3兄弟の三男・井上時利(小左衛門尉定利)に焦点を当てたい。
京都大山崎の油祖離宮八幡宮(岩清水八幡宮元宮)にて、第48代津田宮司さんと記念写真を撮る(戦国期に菜種油の油座があったお宮である)
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井上時利の母は文献では不明だが、旗本井上家のお寺過去帳には、長井道利の妻として稲葉宗張の娘が記載されている。たぶん文献に出てくる道利の妻、すなわち遠藤氏の元妻を後妻に迎えたが、織田信長により美濃追放前後に離縁し、彼女の子息のいる遠藤氏のもと・郡上八幡?へ帰したものと思われる。よって三男井上時利(1566年生まれ?)の母は稲葉氏の可能性がある。
⇒その推測は以前、当ブログ http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-79d3.html で取り上げている
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時利は関ヶ原の戦いで西軍につき、先ほどの理由で1600年以降は浪人となるが、1614年の大坂の陣で豊臣秀頼から召され、侍大将の一人として、道明寺の戦いで薄田兼相らと一緒に討死する。
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井上時利の嫡男井上利中(母は赤座七郎右衛門の娘(赤座七郎右衛門の妻は織田信安の娘)、つまり彼は長井齊藤氏、赤座氏、織田氏、稲葉氏?の血筋を受け継いでいたことになる)は、当時12歳で父の人質として大坂城にいたが、落城後、京都の石清水八幡宮に落ちのびていた(赤座七郎右衛門は齊藤道三の家来、織田信安は齊藤義龍、龍興の家来という)という。
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この少年井上利中が2代将軍徳川秀忠の妻・お江や織田有楽斎、板倉勝重京都所司代らの助命嘆願によって、大坂夏の陣後すぐに二条城で徳川家康に面会し、罪を許され、徳川秀忠の直参旗本となるのである。
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その理由として考えられるのは、お江は浅井氏の出(浅井長政の娘、淀殿の妹、母親お市は織田家の血筋)、後・齋藤の3代目齊藤龍興の正室は浅井氏の出で、その龍興の家老が長井道利(利中の祖父)である。寛政譜によれば、道利の妻は稲葉宗張の娘であり、井上時利の妻にはすでに述べたように織田家の血も入っている。すなわちお江と井上時利は織田家を通じて従兄弟関係にあり、利中はお江からすれば従兄弟の子であり、織田有楽斎も同じ関係になる。助けないわけにはいかないのである。
だからこそ、井上時利の嫡男・利中を助けたのである。関ヶ原、大坂の陣と立て続けに負けても、その罪を家康から許され、徳川家の親衛隊・旗本井上家として、本家、分家(徳川綱吉の嫡男徳松君の小姓として、将軍家から別家設立の許可を得る)ともに、それぞれ500石で明治維新、現代まで生き残るのである。
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