美濃国の黄母衣衆、井上3兄弟
美濃の国の戦国武将に長井斎藤(のちに井上に改姓)の3兄弟と呼ばれる屈強の若者たちがいた。
彼らの父親は、長井隼人正道利といい、国盗り物語の主人公斎藤道三の弟とも、または斎藤家の家老長井長弘の子とも、そして斎藤道三の庶子ともいわれ、後・斎藤三代(秀龍道三、義龍、龍興)に仕える家老だった。しかし後斎藤一門の中で内訌が起き、国主を引退した斎藤道三とその長男・義龍に分かれ、とうとう道三は義龍に打ち取られてしまった。
隣国の尾張の国もそれに呼応するように、尾張上四郡の守護代織田伊勢守家・織田信安と尾張下四郡の織田大和守家は国内で対立していた。大和守家を支える三奉行の一人に織田信秀でおり、その息子に織田信長がいた。この美濃と尾張のたすき掛けした同盟関係の結果、斎藤道三プラス織田信秀(道三の娘婿信長)の同盟軍と斎藤義龍(家老・長井道利)プラス織田伊勢守家織田信安の同盟軍が濃尾両国内で睨み合っていた。やがて織田信秀は病にて死去し、斎藤道三は息子の義龍に長良川の戦いで討たれることになる。
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そうして時代は、斎藤義龍(その家老長井道利)と織田信長の対立の時代を迎える。やがて信長は義龍の病死に助けられる格好だが、濃尾両国の覇権を得る。それでも信長は、義龍の子・斎藤龍興とその家老長井道利(のちに信長と反目した14代将軍足利義昭の家臣となり、将軍命令で和田の援軍として摂津国で討死)を美濃国から追放するまで7年も費やしている。それほど美濃の国は、信長にとって強国で手ごわい相手だったのである。
長井道利の子3人は、主家の斎藤氏が滅ぶと長井姓を変えて、長井の井の字を上にあげて井上と称した、と現代の井上家(利長流)のご当主から直接伺ったのは、今から6年前のことである。その井上さんは、私の母と従兄弟関係にある。道利の子・3人はそれにより井上3兄弟となり、織田信長の軍門に下るのである。
長男の井上道勝と次男の井上頼次は、織田信長の配下を経て、その後豊臣秀吉、秀頼の親衛隊・侍大将格の黄母衣衆に加わるのであるが、井上道勝は、初め織田信長に仕え、その後豊臣の黄母衣衆、そして最後は池田輝政の客分として仕えた。道勝の長子・長井新太郎は、織田信忠に仕えたが本能寺の変に会い、二条御所で織田信忠とともに討死した(本能寺の変、二条御所では信忠方の親衛隊として、長井新太郎、道三末子の斎藤新五郎、赤座永兼が揃って討死した)。よって道勝家は、娘婿の子・纐纈三十郎が長井の名跡を次いで池田藩士となって仕えたが、諸所の問題により微禄となったためか、その後。数代を経て池田藩を脱藩し、行方不明となったと記されている(2017年7月に仕事で訪問した岡山県で、帰りに立ち寄った岡山大学付属図書館にて、その所蔵の池田家文庫「池田家除け帳」を紹介され、そこにそう記してあった。その際、偶然にもその場にいらした倉地岡山大学名誉教授から直接、その解説をしていただいた。)
次男井上頼次も、豊臣家の黄母衣衆の一人、その後は大坂の陣で豊臣方の鉄砲隊長として兵2千人を率いるが、徳川方の上杉軍の猛攻に会い、冬の陣にて討死する。頼次の子孫の存在は不明である。
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三男の井上小左衛門こと井上定利(母は稲葉宗張の娘、臨済宗の井上家菩提寺の過去帳にもそう記載あり、稲葉一鉄の一族か?)は、織田信忠、秀信(信長の孫・三法師)の傘下に納まるが、その後豊臣政権下では摂津の国の代官、関ヶ原の戦いでは織田秀信方についたため、戦後徳川から領地を召し上げられ、浪人となる。大坂の陣では秀頼方の侍大将格で大阪城に入城。その際、定利の子、利中は人質として父とともに大坂城に入る。井上小左衛門は、夏の陣の道明寺の戦いで兵300人を率いるが薄田兼相とともに討死。子の利中は落ち延びて石清水八幡宮(岩本坊)に潜伏中に見つかり、その後板倉勝重や織田有楽、秀忠の妻らの哀願により、二条城で徳川家康に面会し、その罪を許され、2代将軍徳川秀忠の直参旗本として復活し、幕臣井上家2家は江戸幕末まで続き、大目付、道中奉行、作事奉行、目付、駿府武具奉行、西の丸留守居、二の丸留守居、お納戸役などを輩出し、その子孫たちは現代まで続くのである。
井上定利の妻は、織田信長・信忠配下の赤座永兼(京都二条御所で織田信忠とともに討死)の娘、赤座永兼の妻は尾張上4郡守護代・織田伊勢守家の織田信安の娘で、その信安の妻は信長の祖父の娘(つまり信長の叔母)で斎藤家と織田家は複雑に婚姻関係を重ね、同盟関係と内訌を繰り返していた。そうして井上定利系譜の旗本井上家(本家、分家あり)には、斎藤長井家ばかりでなく、女系を通じて織田本流の血脈、赤座の血筋が入っていることになる。井上定利の妻(旗本初代利義の母)は、赤座永兼の娘だが、京都伏見で太閤に仕えていた時、伏見の大地震が起き、その時の立ち居振る舞いを太閤から称賛され、長く子孫にわたり菊桐の家紋(十六葉菊と五七桐)を授けられた。
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なお井上3兄弟の末弟として、徳川家光の時代に起きた紫衣事件で有名な沢庵和尚と一緒に流された京都大徳寺(臨済宗大徳寺派)の住持玉室宗伯(芳春院の開祖)がいるが、歴史はつながるもので、のちに徳川家斉11代将軍の旗本井上本家の当主井上美濃守利恭が京都町奉行を務めているとき、彼の幼子が夭折し、その亡骸を大徳寺芳春院に埋葬している(井上家の過去帳にてその記載を発見する)。芳春院の開祖は、長井道利の子・玉室宗伯(道利の妻・稲葉宗張の娘が育てる)であり、そうしたことからも深いつながりを感じるものである。
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