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2019年5月

2019年5月25日 (土)

歴代の女性アシスタントさんたちを思い出す、今日この頃

2019年3月に東京渋谷区代々木の事務所から移転した。2006年3月代々木に引っ越してきたから丸13年居たことになる。

コミュニティ・ビジネスの研究をコミュニティの現場、東京墨田区両国で始めたのが1994年、そして現場に事務所を設けたのが1997年3月だから、足掛け25年の研究テーマになる。今やコミュニティ・ビジネス研究は私のライフワークとなっている。

その歴史と私の仕事を支えてくれたアシスタントさんたちをご紹介しよう。時には会社のホームページの制作、海外に出す英文レターの作成、出版社からの寄稿を一緒に纏めたりもした優秀な女性たちである。

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かつて(1997年3月~2001年1月まで)コミュニティ・ビジネス・ネットワークの事務所があった東京墨田区両国3丁目のビル、懐かしい

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墨田の仲間たちと、中央の茶色いメガネが筆者、その右隣りがMさん、札幌南出身のMさんには5年間も支えてもらった(墨田区役所前にて)。彼女とは、『まちにやさしい仕事』1999年というCBの絵本を一緒に制作した。

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メーカーのシンクタンク研究員を辞め、新天地の東京稲城市のワンルームでホソウチ事務所を立ち上げた。その時分、私の右腕であった慶応義塾の大学院生であった木村君の紹介で東大の大学院生であったSさんが手伝いに来てくれた。彼女はいま国立大学の教員をしている。その時一緒に纏めた寄稿がこれらである

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東京稲城市から2006年3月に代々木駅東口から1分のところにある新築のマンション事務所に移転した。

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東口から1分で事務所に辿り着いた。明治神宮や新宿御苑入口まで各8分で気軽に出掛けられた。代々木界隈は気分転換にもたいへん心地よい場所であった。

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Fさんには、米国大学院卒業直後の2007年の第一期(10か月間)と第二期の2014年3月~2019年2月(5年間)の両期間を支えてもらい、和文翻訳やホームページの作成IT系の問題解決ではだいぶ助けられた。彼女はパワフルな女性である。

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2008年4月~2010年4月の2年間アシスタントをしてくれたYさんは、その直前まで私の著作を担当していた出版社の元編集者で、会社を辞めて東大の大学院生をしながら、週2日ほどサポートしてくれた。彼女から「お茶づけ12年」の意味を教えてもらった。先を見据えた仕事の計画策定がたいへん上手であることが印象に残っている。彼女はいま国立博物館のキュレーターを務めている。

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彼女は九大を出て、大手電機通信メーカーの社員のまま、土曜日を中心にサポートしてくれた。当時、私は法政大学大学院の兼任講師(6年間)をしていたので、彼女に授業で使う資料を作成してもらっていたし、彼女は大学院の授業にも同行してくれた。

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桜咲く新宿御苑にて(観光客から借りた虎のリックを持つ)、大学院のパンフに載せる写真を撮影(代々木事務所にて)

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引越し直前の2019年2月、渋谷区千駄ヶ谷5丁目の代々木事務所から夜景の新宿駅方面を望む

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湘南ビーチFM(森川さんの番組)に3年間(2008~2010年)、月一回の出演をしていたころ、『ハッピーコミュニティ・ビジネス』の台本は、アシスタントのYさんに纏めてもらっていた。逗子葉山での生放送終了後、葉山マリーナ付近にあった漁師の女将さんたちが経営しているCB食堂に立ち寄り、女将さん作る魚定食を食べるのが毎回楽しみであったが、今でも営業しているのかな?また訪れてみたい漁師の女将さん食堂である。

☆彡

歴代アシスタントのみなさん、お元気ですか?

また会いましょう!

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☆彡

2019年5月21日 (火)

自由時間の創造が人生を豊かにする、先人津端修一先生へのオマージュ



令和元年の6月に東京稲城市若葉台で津端修一、英子ご夫妻のドキュメンタリー映画『人生フルーツ(2016年)』があるという。

20年前(1999年4月28日)に愛知県春日井市郊外の津端邸を訪問し、小生が写したご夫妻の写真。その後自由時間評論家津端先生より数通いただいたお手紙。自由時間研究の原点が書かれている。

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☆彡
津端先生へのオマージュ
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1.自由時間評論家・津端修一先生を悼む 
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2.津端修一さんからの手紙
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3.自由時間評論家津端先生からの手紙
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☆彡

2019年5月13日 (月)

江戸の切れ者、筆頭大目付・井上美濃守利恭

美濃国の戦国武将、井上3兄弟の3男井上定利(利定)の長男に井上利義(利仲)がいるが、大阪の役後二条城で徳川家康に御目見えし、許され、井上家初代の直参旗本となる。その系譜が徳川綱吉の時、綱吉の嫡子に仕える形で井上分家が誕生したが、若君さま早世により一時小普請入りするが奉公に励み、本家分家とも幕末まで御家を全うする。

両家とも家禄500石で、極官としては布衣の組頭、留守居、若年寄支配の奉行などがほとんどだが、中には従5位下美濃守(諸大夫)を叙付された当主がいた。彼の名は、井上美濃守利恭(1749年―1820年)といい、1798年に49歳で作事奉行(役高2000石)からの栄転で大目付(役高3000石)を仰せつかり、72歳までの23年間にわたりお役目を果たした人物である。

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彼の大役の一つ、徳川家斉の時代(1810年)に朝鮮通信使の幕府供応役を務めたことである。正史が小笠原小倉藩主、副使が脇坂竜野藩主で、いずれも大名であるが、幕府の実務的責任者・御用掛を当時の筆頭大目付兼帯道中奉行の井上美濃守利恭が務めたのである。

歴史的には江戸時代最後の朝鮮通信使といわれ、朝鮮通信使は本来江戸の将軍に朝鮮国王の国書を携えて謁見するが、その江戸まで来ずに長崎の対馬で供応したことが記されている。これは双方合意の上で成立したもので、財政的にも相互に負担を減らす効果があったという(本来江戸までの道中供応には100万両かかるが、朝鮮国の日本側窓口の対馬で行うことで、幕府は38万両で済ませたという、しかも江戸から3000人を派遣することで簡易に済ませている)。井上美濃守利恭は、儀礼にかかわる一切の仕事を完了させて、翌1811年に江戸に戻ったことが幕府の公的記録に残っている。彼にとって心身共にたいへんな重責を果たしたことになる。慶賀の朝鮮通信使の供応には、100万両はかかるといわれている経費を、その半分以下に抑えた手腕は、彼の京都町奉行、作事奉行時代に培った経済コストを考えた手法といっても良いだろう。まさに切れ者美濃守である。

これを知ったのも2017年岡山での仕事の帰りに、岡山在住の旧知の友・中山氏と岡山県牛窓町にある朝鮮通信使資料館を訪ねたことに始まる。

井上美濃守利恭の職歴が、今風にいえば典型的なキャリア官僚コースであるので、当ブログにてご紹介しよう。

彼は、18歳で将軍家治にお目見えし、井上本家の家督を継ぎ、小普請入りを果たしている。そして20歳で小姓組入りし、20歳代は進物御番を務めている。34歳で将軍外出時の警護を担当する小十人頭(現場の警護責任者で役高1000石)となり、布衣(6位相当)を許されている。

37歳で旗本5000家を取り締まる目付に就き、39歳(1788年)で遠国奉行の一つ、京都町奉行(役高2000石)に就任している。当時幕府は体面を保つため、江戸から京都に向かう遠国の奉行職には、赴任手当として300両を下している。京都の町の半分が燃えた大火直後に、京都の町の治安維持と町の再生に江戸幕府官僚の若手のエース級を江戸から送り込んだことになる。ここまでは順調なエリートコースであり、家格500石ながら役高は4倍の2000石、そして官位は大名クラスの従5位下美濃守を賜っている。

彼は42歳になると江戸に戻り、今度は作事奉行を務めるがここで辣腕を振るう。江戸城の修復ばかりでなく、久能山東照宮や日光東照宮、世良田東照宮などの修繕責任者として現地に赴き、腕を振るうことになる。記録を見ると将軍から各地の修繕完了の度に大判の金子(黄金)を5枚、10枚と下賜されている。そして作事奉行としては7年間をつつがなく勤め、49歳でとうとう直参旗本の最高役職の一つ、大目付(役高3000石)に昇りつめるのである。その後、彼は大目付に23年間も在職(江戸期で最も在任期間が長い大目付の一人)し、在任中に筆頭大目付となり、道中奉行も兼帯し、美濃守といえば切れ者大目付の井上美濃守といわれるまでになった。

時は将軍家斉の寛政改革の世、寛政重修家譜によれば、作事奉行時代は、修繕を美しく仕上げ、経費を切り詰め、いわばコストカッターとしての手腕を発揮し、幕閣に井上美濃守ありといわれた。

そして62歳で大目付のまま朝鮮通信使(第12回)の幕臣筆頭供応役(あの遠山の金さんの父親も配下の目付として同行、その後長崎奉行を務めている)を長崎対馬でやり終え帰府すると、翌年の63歳には諸家系譜書継御用を相務め、徳川家斉の時代(50年間)、寛政の改革を支えた有能な幕臣の一人となるのである。

井上美濃守71歳のおり、幕府に老衰願いが受理され、隠居を仰せつかり寄合旗本へ、その後幕府より養老料として切米300俵を賜り、72歳で鬼籍入りするまで、恙なくお役目を果たしている。

歴代の井上家の過去帳を見ると、一番長い戒名が付けられている。多忙のなかで後妻を迎え、江戸から長崎の対馬まで供応・御用掛として往復道中2年の歳月を費やし、切れもの井上美濃守利恭の人生は休むことのない、まさに走り続けた激務の一生であった。

☆詳しくは、拙著『我が家の女系史伝』CB総研出版部 2020年を参照されたし

 

井上3兄弟系譜の女系関係から頑固者を見出す

明治生まれの亡くなった母方の祖母は、最近まで親戚一同から彼女が長女であると思われていたが、私が祖母、つまりばあちゃんの実家の除籍謄本を取り寄せてから本当のことが分かった。

彼女は、実は四女でありながら、父親が若いとき(明治期に)本籍を移転したため、その後は長女として記載されたのである(昔はよくあること)。その除籍簿を見ると、ばあちゃん家の姉たち三人は、三歳未満で夭折している。家業の造り酒屋もカビが発生し、郡内随一の造り酒屋も大正末期に廃業を余儀なくされた。そうした不運続きの中で、彼女の父(私の曽祖父にあたる)は本籍地を替えたのであろう。

ばあちゃんの母親(曾祖母)は、明治のはじめに18歳で江戸旗本家から造り酒屋に嫁入りし、6人の子を生し、ばあちゃんが3歳の時、幼子たちを残してうら若き身の33歳で天国へと旅立っていった。その曾祖母から辿る先祖の女系史がとんでもないことになるのは最近のこと。歴史好きの私を日本の戦国時代へ駆り立てたのである。

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大阪冬の陣、豊臣秀頼方の鉄砲隊長、井上頼次または定次(長井道利の次男で秀吉・秀頼の黄母衣衆の一人、井上3兄弟の真ん中)は、秀頼から任された2千人の鉄砲隊を率いながらも、徳川方上杉勢の猛攻撃を受け、鴫野の戦いであえなく討ち死した。

祖母の母親(曾祖母)から遡る井上姓のご先祖は、この井上3兄弟の3番目から発祥し、鴫野で戦死した井上頼次(定次)の弟にあたる3男井上定利から始まる。井上定利も翌年の大坂夏の陣にて300名の兵を率いた道明寺の戦いで、薄田兼相らと共に討死している、井上定利の母親は、稲葉宗張の娘で、稲葉一鉄に繋がる稲葉一族であり、頑固一徹で有名な稲葉一鉄の息子(臼杵藩の藩祖)に斎藤道三の娘(長井道利の妹)が嫁ぎ、そんな関係から江戸の幕末まで大名稲葉家と旗本井上家は親戚付き合いをしている。

頑固一徹(一鉄)といえば、江戸末期に井上定利の末裔、旗本井上分家の当主井上収蔵には、賤ケ岳七本槍の一人・平野権平の末裔の旗本平野家から娘が嫁いでいる。また井上家の系図を見ると、江戸初期の旗本井上家2代目の井上利景の妻には、あの大久保彦左衛門の娘が嫁いできている。こうして稲葉一鉄、平野権平、大久保彦左衛門と女系繋がりながら、頑固もの3人衆のDNAが井上家には脈々と受け継がれていることになる。その子孫はどんな頑固者になることやら心配である。肥後のもっこす、土佐のいごっそう、津軽のじょぱりにも負けない頑固者になるかもしれない。武家というプライドがあるだけに誰にも負けない真の頑固者かもしれない。

 

 

 

2019年5月11日 (土)

地域コミュニティの見方、その2

地域マトリックスのモデル 

出典:https://hosouchi188.wixsite.com/communitynavi/community-navi

地域マトリックスは、自分や家族の住むまちの快適さを表す指標。住宅情報の参考となるもの。

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ただし、家族構成や世代、働き方、生き方の重心位置によっても変化する

地域マトリックス 大項目 中項目 小項目別
●通勤
・交通
 都心までの所要時間
 電車の混雑率
 路線の遅延・運休率
 特急列車の停車の有無
・買い物
 深夜営業スーパーの有無
 徒歩圏コンビニの数
 飲食店の数
・余暇   
 娯楽施設の有無
 スポーツ施設の有無
●子育て
・医療
 総合病院の有無(産科・救急含む)
 産科医院の数
 小児科の数
 歯科の数(矯正含む)
・保育
 保育園・こども園の数
 待機児童数
 幼稚園の数
・余暇
 公園の数
 児童館・子育て支援施設の数
 図書館の数
 ファミリーレストランの数
 ファストフードの数
・教育
 学習塾の数
 お稽古教室の数
<以下続く>     (C)CB総研+H藤原

 

地域コミュニティの見方、その1

定年退職後、ハッピーライフの塔は構築可能か?

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インドのニューデリーにて写す

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地域コミュニティにおける生活のルーティン化がシニアの健康寿命を延ばす。
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日本の農村における代表的な地縁コミュニティの一つ野澤組(自治組織)
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長野県野沢温泉村の自治組織・野澤組は、日本のコミュニティ自治の原点。共助、互助の在り方を垣間見ることができる。写真は野澤組の事務所で当時副総代の片桐(その後総代を務める)さんと一緒に写す。村役場とは違い江戸初期から存在する住民主体の自治組織が野澤組だ。温泉源と共同湯、入会地を野澤組が所有している。地縁団体の法律が成立した時、私のアドバイスにより土地登記を地縁団体法人野澤組に書き直した。そして野澤組で講演したことも、私の矜持の一つだ。
いまでも当時の役員さんとのお付き合いがある。
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2019年5月 7日 (火)

地域おこしとは、自己をならうことである

地域おこしは、自己への気づきであり、自分おこしでもあり、自己をならうことである。

地域おこしは、自分のものさしを持つことが成功(課題解決)への要諦である。

そして異質なもの同士の衝突が、地域にイノベーションを巻き起こすのだ。

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歴史と伝統をはぐくむ京都大山崎離宮八幡宮の津田宮司さんと

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園の子供たちに『やってんべ』が口癖のココ・ファーム・ワイナリーの在りし日の川田園長

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現役で働く沖縄のおばあ、那覇市の牧志公設市場にて

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地域おこしは、こうして地域にしっかり根をおろして働く人々によって支えられている。

2019年5月 4日 (土)

昨今の日本社会事情

当方、4月はコナミに毎日通い、体重を2.5キロ減量した。平日のロッカールームのシニア男性同士の会話にびっくり寿司。ゴールデンウイークを前にして、「妻は元気で、留守がいい!」とのたまう。退職して夫婦の立場が逆転したらしい。妻はゴールデンに女友達同士で海外旅行に行くとのこと。アクティブなシニア女性が増え、お留守番亭主が増えている昨今の日本社会の現実だ。

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最近の心配事の一つは、年金支給日にレトルトカレーを10箱とパックのご飯10ケースをまとめ買いしてから、銀行へ年金を下ろしに来るシニアのことだ。いわばチンチン族とでもいうべきか。電子レンジ愛好者で、まるで電子レンジを抱いて生活しているようなものだ。男にとって、定年退職後の人生を楽しく生きることがたいへん困難な時代に突入したようだ。

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暮れなずむ東京の新宿界隈

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「団塊世代の地域デビュー心得帳」という本を書いているときの取材メモが出てきた。ある高級サラリーマン氏のお話し。

地方都市から大学進学時に東京へ。今や65歳をすぎ、資産運用に成功し、シングルの億万長者に。自宅が東京と出身地にそれぞれあり。さらにワンルームの投資マンションが都内に4件もある。退職金には手を附けず、そのまま銀行にプールとか。株と金は塩津家。公的年金も支給を開始したが銀行口座にプールとか。さらに養老年金数本も毎月支給され、打ち出の小槌を持つ大黒様だ。現役のころ、職場に保険のセールスレディが来ても、彼の話術から早々に退散する光景が何度もあり、まさに資産運用の達人といってもよい人だった。うらやましい限りだが、日々目標をもって、しっかりと生きていくことが大切だ。

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最近読んだ本。実は漫画版から文庫版まで様々なタイプの書籍が出ている。僕たちは、この混迷する日本社会をどう生きていけばよいのか!考えさせられる1冊だ。

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