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2019年5月13日 (月)

江戸の切れ者、筆頭大目付・井上美濃守利恭

美濃国の戦国武将、井上3兄弟の3男井上定利(利定)の長男に井上利義(利仲)がいるが、大阪の役後二条城で徳川家康に御目見えし、許され、井上家初代の直参旗本となる。その系譜が徳川綱吉の時、綱吉の嫡子に仕える形で井上分家が誕生したが、若君さま早世により一時小普請入りするが奉公に励み、本家分家とも幕末まで御家を全うする。

両家とも家禄500石で、極官としては布衣の組頭、留守居、若年寄支配の奉行などがほとんどだが、中には従5位下美濃守(諸大夫)を叙付された当主がいた。彼の名は、井上美濃守利恭(1749年―1820年)といい、1798年に49歳で作事奉行(役高2000石)からの栄転で大目付(役高3000石)を仰せつかり、62歳までの13年間にわたりお役目を果たした人物である。

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彼の大役の一つ、徳川家斉の時代(1810年)に朝鮮通信使の幕府供応役を務めたことである。正史が小笠原小倉藩主、副使が脇坂竜野藩主で、いずれも大名であるが、幕府の実務的責任者・御用掛を当時の筆頭大目付兼帯道中奉行の井上美濃守利恭が務めたのである。

歴史的には江戸時代最後の朝鮮通信使といわれ、朝鮮通信使は本来江戸の将軍に朝鮮国王の国書を携えて謁見するが、その江戸まで来ずに長崎の対馬で供応したことが記されている。これは双方合意の上で成立したもので、財政的にも相互に負担を減らす効果があったという(本来江戸までの道中供応には100万両かかるが、朝鮮国の日本側窓口の対馬で行うことで、幕府は38万両で済ませたという、しかも江戸から3000人を派遣することで簡易に済ませている)。井上美濃守利恭は、儀礼にかかわる一切の仕事を完了させて、翌1811年に江戸に戻ったことが幕府の公的記録に残っている。彼にとって心身共にたいへんな重責を果たしたことになる。慶賀の朝鮮通信使の供応には、100万両はかかるといわれている経費を、その半分以下に抑えた手腕は、彼の京都町奉行、作事奉行時代に培った経済コストを考えた手法といっても良いだろう。まさに切れ者美濃守である。

これを知ったのも2017年岡山での仕事の帰りに、岡山在住の旧知の友・中山氏と岡山県牛窓町にある朝鮮通信使資料館を訪ねたことに始まる。

井上美濃守利恭の職歴が、今風にいえば典型的なキャリア官僚コースであるので、当ブログにてご紹介しよう。

彼は、18歳で将軍家治にお目見えし、井上本家の家督を継ぎ、小普請入りを果たしている。そして20歳で小姓組入りし、20歳代は進物御番を務めている。34歳で将軍外出時の警護を担当する小十人頭(現場の警護責任者で役高1000石)となり、布衣(6位相当)を許されている。

37歳で旗本5000家を取り締まる目付に就き、39歳(1788年)で遠国奉行の一つ、京都町奉行(役高2000石)に就任している。当時幕府は体面を保つため、江戸から京都に向かう遠国の奉行職には、赴任手当として300両を下している。京都の町の半分が燃えた大火直後に、京都の町の治安維持と町の再生に江戸幕府官僚の若手のエース級を江戸から送り込んだことになる。ここまでは順調なエリートコースであり、家格500石ながら役高は4倍の2000石、そして官位は大名クラスの従5位下美濃守を賜っている。

彼は42歳になると江戸に戻り、今度は作事奉行を務めるがここで辣腕を振るう。江戸城の修復ばかりでなく、久能山東照宮や日光東照宮、世良田東照宮などの修繕責任者として現地に赴き、腕を振るうことになる。記録を見ると将軍から各地の修繕完了の度に大判の金子(黄金)を5枚、10枚と下賜されている。そして作事奉行としては7年間をつつがなく勤め、49歳でとうとう直参旗本の最高役職の一つ、大目付(役高3000石)に昇りつめるのである。その後、彼は大目付に13年間も在職し、在任中に筆頭大目付となり、道中奉行も兼帯し、美濃守といえば切れ者大目付の井上美濃守といわれるまでになった。

時は将軍家斉の寛政改革の世、寛政重修家譜によれば、作事奉行時代は、修繕を美しく仕上げ、経費を切り詰め、いわばコストカッターとしての手腕を発揮し、幕閣に井上美濃守ありといわれた。

62歳で大目付のまま朝鮮通信使(第12回)の幕臣筆頭供応役(あの遠山の金さんの父親も配下の目付として同行、その後長崎奉行を務めている)を長崎対馬でやり終え帰府すると、翌年の63歳には諸家系譜書継御用を相務め、徳川家斉の時代(50年間)を支えた有能な幕臣の一人となるのである。

井上美濃守71歳のおり、幕府に老衰願いが受理され、隠居を仰せつかり寄合旗本へ、その後幕府より養老料として切米300俵を賜り、72歳で鬼籍入りするまで、恙なくお役目を果たしている。

歴代の井上家の過去帳を見ると、一番長い戒名が付けられている。多忙のなかで後妻を迎え、江戸から長崎の対馬まで供応・御用掛として往復道中2年の歳月を費やし、切れもの井上美濃守利恭の人生は休むことのない、まさに走り続けた激務の一生であった。

 

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