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2019年10月 5日 (土)

あの人の心に残る珠玉の一言その3、コシノジュンコさん、川淵三郎さん

この夏、日経新聞の「私の履歴書」のコシノジュンコさんの記事を読んでいて思い出した。平成15年3月に国土交通省から依頼されて地域活性化貢献表彰時に記念講演を頼まれたとき、その審査委員としてコシノジュンコさんが参加されていたが、コシノジュンコさんとイケメンの旦那さんの二人から同時に名刺をいただいたのを覚えている。「私の履歴書」でコシノジュンコさんが述べている通り、 積極的で素敵な旦那さんだな、と思った次第である。その後、旦那さんからファッションショーやお店のご案内などのレターを何度か頂いたからである。そうした好印象が記憶に残っている。

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コシノさんの地元大阪に目を移すと、大阪のシンボル、大坂城では1614~15年に豊臣と徳川の戦が行われた。次図は大坂冬の陣である。蛇足だが、信長の弟・織田有楽の嫡男・織田長頼と井上時利は親戚関係にある。詳しくは小生が調査し、まとめた旗本井上家の女系史伝を参照されたし。この二人の武将が谷町口を固めていたが、織田長頼は途中で大阪城を退去してしまう。

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☆大坂冬の陣、谷町口の守りに15代前のご先祖、井上時利の名が見える。小生の女系繋がりの先祖である。

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☆大坂夏の陣の道明寺の戦い。古墳誉田陵近くに戦国武将井上時利(秀吉時代の摂津国の代官)の名が見える。この地で彼は討死を遂げるが、大坂城から脱出した息子は、その後徳川家康の許しを得て、秀忠の直参旗本となる。これも織田信安守護代と織田信定(信長の祖父)の血脈を受け継いでいるからである。

閑話休題

小生、仕事柄、時の人のお話を聞く機会が少なくない。サッカーJリーグ発足前の時の人、川渕三郎さんの講演会に参加してみた。講演会終了後、名刺交換を希望する人たちの列に加わり、名刺交換時に川渕さんへ一つ質問を投げかけてみた。「選手の時代からプロサッカーJリーグの発足まで、続けてこれたその原動力は何ですか?」、川渕さん曰く「パッションを持ち続けることが大切ですよ」。

教訓:『何事も情熱を持ち続けて、一つのことにこだわることが大切』

*余談

Dousan

☆旗本井上家にあった元禄時代の家系図

戦国武将井上時利(長井隼人正道利の三男、家系図では井上小左衛門利定)は、美濃国太守の斎藤道三、織田総本家伊勢守家・守護代の織田信安の孫(正確には時利の妻がその孫にあたる)で、関ヶ原の戦いでは織田秀信(信長の孫)方につき、その結果知行地を召し上げられる。大坂夏の陣では豊臣方として後藤又兵衛や真田幸村らと共に道明寺の戦いで討死。しかし、その志(熱意)とこだわり続けた戦歴(関ケ原で西軍、大坂の陣で秀頼方)が徳川家康に認められ、その息子(井上義利、家系図では井上利仲)は赦され2代将軍秀忠の旗本に召し抱えられる。さらに5代将軍綱吉時代に綱吉の息子(夭折)の小姓として別家設立。旗本井上家は、こうして明治維新まで本家、分家とも生き延びるのである。

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