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2019年10月 6日 (日)

北関東の茨城、栃木、群馬は、なぜ国民への魅力度や印象が薄いのか

東京から見た田舎は、ずばり北関東3県の茨城県、栃木県、群馬県である。

そして東京人(地方から出てきた都民たちと千葉県、埼玉県、神奈川県に住む一部の人達は、東京都民であると思い込んでいる)から見た宮崎県、高知県、岡山県、秋田県、岩手県(この5県選定には意図がありません)などは田舎ではない。それらはあくまで地方の一つである。だから政府は”地方創生”を政策の一つに掲げているが、田舎創生は掲げていない。

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そうした東京人は、自分の生活圏である東京都を生活基盤とするが、東京の”田舎地”である北関東にはめったに出かけないよって北関東3県は彼らにとって、とても印象が薄いのである

また東京人のバケーションは、北関東の田舎地域に行かず、地方や海外に行くますます北関東3県は印象が薄くなるのである。

そして戦後ずーっと、北関東3県は全国に波及する情報発信手段を自ら持たなかったし持つ必要も生じなかった。その一つに例えば、我がふるさと栃木県はつい最近まで県内をカバーする独自の民放テレビ局がなかった。半面東京人と同じテレビ映像がすべて映るという”都会田舎(とかいなか)”という、半ば茶化されたキーワードに自己満足していた。プロスポーツチームも同様で、最近まで県内にプロスポーツチームは誕生していなかった。プロスポーツチームの誕生は、全国の都道府県の中でもかなり遅い方であるこれでは栃木県としてのアイデンティは育たないし、また東京人(自称都民も含む)や地方人から見ても、また栃木県にほぼ類似する北関東の茨城県、群馬県も同様に、東京の田舎地域はまったく印象に残らないのである。

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これには、江戸時代に起因する歴史的背景がある。徳川の支配地が関東地方の大部分を占めていたが、特に北関東3県は、徳川の親衛隊である旗本領地が大多数を占めていた。たとえば一つの村を旗本複数家が治める”相給(あいきゅう)”という分割の統治状態が長く続き、それらが村内ばかりか他村との対立を生み、まとまりのない統治文化が北関東の3県エリアを大きく支配していた。

熊本藩や鹿児島藩、岡山藩、尾張藩、仙台藩のような大藩による一体感もないし、村を支配する殿様(旗本、すなわち地頭)が江戸在住(水戸藩主も副将軍として江戸詰が定められていた)では、独自性を出すこともしにくい状況にあった。この支配体制による生活文化(お上・幕府、殿様(旗本)に従順であれ!奇抜なことはするなかれ!自己主張はするなかれ!)が現代まで風土として引き継がれているのが、北関東の茨城、栃木、群馬の3県である。そして埼玉県、千葉県、神奈川県(東京隣接地の中には、自分は東京に通う東京人であると思い込んでいる地方出身都民がいるから尚更たちが悪い)にも、その影響が色濃く残っているのが、関八州すなわち関東の風土である。

このことが、ここ40年間にわたり全国各地を講演・セミナーの仕事で歩いてきたことと生を受けてから高校まで多感な青少年期を北関東の田舎まち宇都宮で育った歴史の研究者地域コミュニティの研究者である、私の経験則的な持論である。

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筆者の栃木県商工会議所青年部(YEG)における講演風景。お隣は当時の福田昭夫栃木県知事。現在の福田富一知事も宇都宮市長時代に私の講演会(コミュニティセンターの開所式における講演会)に参加している。

参考情報:細内の先行研究について

   :細内の講演録

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