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2020年2月11日 (火)

「鶴瓶の家族に乾杯」岐阜市編の岡本太郎右衛門家の460年続く稼業の秘訣とは?

2020年2月10日にNHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯」の岐阜市編を見ていたが、その中で岐阜市の名門岡本太郎右衛門家のことに興味がわいた。そこで400年を超えるその家業の繁栄状況を考察してみた。

初代の岡本太郎右衛門さんは、岐阜(当時は井ノ口)において鋳物業を創業したのが西暦1560年だそうだから、当時の美濃国の治世は斎藤三代(道三、義龍、龍興)支配の時代である。そして現在の当主岡本太郎右衛門さん(90歳)は、ちょうどそこから15代目にあたるそうだ。

私のご先祖探しで分かったことであるが、斎藤三代に仕えた重臣の一人長井隼人正道利が当方のご先祖の一人(直系でなく、女系女系のつながりであり、明治期に旗本井上家からひいばあさんが嫁にきて繋がっただけで大したことではない)であることが判明したが、小生からさかのぼると長井隼人正道利はちょうど16代前にあたる。亡き母が存命していればちょうど90歳であるから、岡本太郎右衛門家の代数15代と一致することになる。


*家伝・旗本井上家の家系図(元禄年間に作成)を現在のご当主の許可を得て筆者が写す

そして現在の岡本家の家業(社業)を調べてみたら、460年も生き残り続けるには、家業をその時々のニーズに合わせ、着実に変化させ、そして進化させることが経営の秘訣であるということを掴んだ。それが当主の役目である。

日本では小さな業(家業)でも、時代の先行き、潮目の変化、経営を間違えなければ、こうして生き残りが可能なのである。

岡本+太郎+忠右衛門の忠右衛門尉は、当時武士のはやり名の一つで、長井道利の息子に井上忠右衛門道勝(書物により忠左衛門と記載するものもある)が実在するが、織田信長によって斎藤家が滅ぶと、彼は長井の井の字を上にあげて、井上と名字を変えた。長井道利の息子、井上三兄弟はそうして宿敵であった織田信長の旗下に下ったのである。勝者に遠慮して敗者が元の名字を変えることはよくあることであった。

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斎藤家重臣の戦国武将長井道利の補足説明(詳しくは次の書籍に纏められている

S20151118_025
岐阜県主催の講演後に岐阜県関市にある関城にて記念撮影。
関城主長井道利(16代前のご先祖)の名前が記載されているところを指さす筆者。
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☆ご先祖探究を始めて、すぐに小生に岐阜県庁より講演依頼がきた。岐阜県関市における基調講演時に、当方の母、祖母、曾祖母に繫がる女系譜だが、15代前のご先祖長井隼人正道利 (その息子で3男・井上利定(時利)ー利義(利中)ー利長ー利實ー利友ー利壽ー利喬ー利貞(多聞)ー利充(熊蔵)ー利和(収蔵)ー井上利明(高祖父・勔次郎)ー曾祖母(お嫁に来たひいばあさん)ー祖母―母ー小生)の居城だった関城に立ち寄る。
あわせて長井道利の義理の息子遠藤慶隆の郡上八幡城にも講演の主催者さんのご案内で立ち寄る。再現ではあるが木造建築の秀麗な城である。さすが清流と森林の国である。
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