« 2020年12月 | トップページ | 2021年2月 »

2021年1月

2021年1月29日 (金)

2代目へっぽこ先生の登場だ

彼は40数年前、洋酒のサントリーのテレビCMに出演していた。
*
自称へっぽこ先生こと木版画家の川上澄生が、初代のへっぽこ先生だ。
*
私は、当時彼と同じまちに住んでいた
*
彼のあだ名は”宇都宮宮司”だった。東京の芸術家仲間たちは、彼をそう呼んでいた。
*
2008_20210530174501
郷土の先輩と同じポスターに納まる
*
そして2代目へっぽこ先生は、
*
*
有限会社コミュニティビジネス総合研究所の代表取締役所長である。
*
民間研究所の代表取締役でコミュニティ研究の第一人者である。
*
20161207cb
2016.12海外招待講演時
*
☆彡

2021年1月27日 (水)

那須与一と将棋の藤井さんにみる、天才は早熟である、ということ

少しむかしのことであるが、経産省から頼まれて高松市での講演の帰り、屋島に立ち寄り、平家物語で有名な扇の的を獲る那須与一(鎌倉幕府の御家人、本貫地は下野国那須)について思わぬ発見をしたものです。

それは、当時彼の年齢が数えで16歳、将棋の天才藤井さんと同じ歳に偉業を成し遂げたからです。共通項は、「天才は早熟」であるということです。

2番目の驚きは、屋島の碑から分かったことですが、与一と扇の的までの距離がたった70メートルだったことで、意外に短い距離であったことには正直びっくりしました。

的を射ることに成功し、源平の戦のショータイムを盛り上げた彼は、頼朝から荘園(備中国荏原荘)をもらい、その後11男ながら兄弟を追い越し、那須家の当主になりました。

その前後ですが、井原市からの講演依頼で岡山県井原市を訪問した時、駅前に”那須与一のふるさと”という大きなアーチを見て、驚きでした。彼は、私のふるさと下野国の武人・偉人ではないか、と思ったからです。なぜ岡山で那須与一なのか?と大きな驚きでした。与一の庶流が、地頭として治めたことが帰宅後判明しましたが、栃木県とはずいぶん力の入れようが違うのか、と思った次第です。

Img_20220831_062143 

源平合戦ではこうした霧に包まれた環境で合戦することが少なくなかった

 

2021年1月25日 (月)

大名の倒産はない、それが封建制度だ

浅田次郎氏の「大名倒産」を読み終えたが、お上に倒産はない。

有史以来、わが国にあるのは徳政令(チャラ、ご破算)があるだけ。

ことわざ「泣く子と地頭には勝てぬ」は、その証左だ。

Dsc_1541  

先人を敬う、人はそれを先生という    

« 2020年12月 | トップページ | 2021年2月 »