下野国の天保飢饉と経営コンサルタント二宮金次郎(尊徳)の出現
天保の飢饉(1833-1839)は、下野、常陸国にとって、享保・吉宗の時代(1716-1736)の人口から30~40%も人口が急減した。下野、常陸国とも、俗にいう夜逃げ逃散、潰れ百姓が多発した地域だ。人口の4割減は相当深刻だ。明治期までその人口は回復しなかったという。
ここに時代の要請として、下野国における農政家(今風に言えば農村の経営コンサルタント)二宮金次郎の出現が待たれるのである。小田原藩大久保家の分家である旗本領が下野国の芳賀郡桜町にあり、知行地の石高が1/3まで激減しているところに派遣され、再興していくのである。のちに幕府からも農村復興を頼まれ、日光山領の下野国88か村の農村復興にも関与する二宮金次郎である。筆者は55年前の小学校遠足時に日光市今市にある二宮金次郎のお墓を訪ねたが、土に盛られた饅頭墓で周辺をきれいに清掃されていたことを今でも覚えている。当時栃木県内各地の小学校の校庭には、二宮金次郎さんの銅像が立ち、薪を背負った勤勉家の二宮尊徳さんが地元のみんなから尊敬されていた。
筆者の母校佐野市立田沼小学校の二宮尊徳さん
下野国の中央部、河内郡でも大飢饉で農村は荒廃し、河内郡に知行地を抱えた多くの幕臣旗本が領民と共に苦心した。知行地の石高不足を、残された本百姓や五人組隣保にあてがわれ、逃散、潰れ百姓の残された耕作地を彼らが代替え耕作したが、冷夏と逃散による人手不足で満足な石高を確保できなかった。
そして、世は貨幣経済に突入し、旗本は江戸の金貸しから知行地の年貢を担保に金策に走る始末。知行地の庄屋が金貸しから年貢分の金子を調達し、殿様が裏書をする(実は江戸の殿様(旗本)が生活苦から画策)。江戸幕府の弱体化は、黒船来航だけでなく、こうした天保の大飢饉から始まったものである。しかも相給の領地では村民のまとまりはない。互いに監視する地域社会が生まれる。ここに今の北関東各県の県民性の源があると筆者は考えた。
さて本百姓は、平均で40石の米を生産していたが、元禄期の地方直し(じかたなおし)の表高500石の旗本なら、新田開発で天保当時は10%増しの550石はあったようだ。表高500石の旗本には約14軒の本百姓(一家で5~7人、40石×14軒=560石)があてがわれた。当時収穫の配分は、旗本3.5~4で、百姓6.5~6であった。もちろん旗本には幕府の規定で500石ならば10人の家来が必要であったし、本百姓には、水のみ百姓(小作人)が与力として米や農産物の生産に従事していた。年貢の他に日光街道・宿場の助郷役(人馬の用意)もあり、百姓の不満は飢饉の人口減も手伝って限界に近づいていたのである。そうした階層社会の圧政がわが国の農村社会を支配していた。
県史・町史にこんな記録が残っている。畳のある部屋を有する農家は、河内郡のある村で全体の65%ほど、おおむね本百姓の家がこれに該当する。残りの35%ほどが小作人の家である。この小作人の多くの人たちが、生活苦から潰れ百姓として逃散して行ったようだ。いつの時代も弱者が犠牲となる。人の世はむなしい。人口100万人の大消費地・江戸へと向かうのだった。
ちなみに下野国河内郡(栃木県中央部、現在の宇都宮市、上三川町、下野市付近)は、豊臣秀吉の時代に名門武家の宇都宮氏(20数万石~30万石)が改易となっており、宇都宮氏の多くの家臣、一族は帰農し、そのまま本百姓となって土着している。その地位は江戸期も農村の支配層として定着していたことを忘れてはいけない。
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