研究テーマが面白ければ、それは芋ずる式に広がっていく、日本のテーマパークを中心に敢えて公開する
1990年代前半に住友信託銀行のシンクタンク勤務で感じたことを述べてみよう。
1991年に私が調査した日本全国のテーマパーク事業は、当時クライアントから求められた調査研究テーマの一つであった。1983年4月15日に東京ディズニーランドが開園してから8年が経過し、我が国のテーマパークの事業要因を考察してほしいという要望に基づいて行われたものである。
1992年の報告書3月版、9月版と2冊あり、2年度に渡って実施された。クライアントに納品された後、早速研究所の機関誌にその概要記事を書くようにと業務命令が来たが、その結果が次の機関誌(1993年1月、住信基礎研究所発行)に掲載された小論である。
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しばらくして研究所の機関誌を見た外部の出版社から原稿依頼がきた。当時は外部への講演や寄稿は、研究所にその謝礼金や印税の半分を納めれば自由にやってよいことになっていた。次の写真の週刊ダイヤモンドへの寄稿は、1993年9月4日号である。
そして日本経済新聞社からの取材(上記の黄色の表紙もの)や銀座にあるレジャー&レクパーク関係の出版社からも寄稿の依頼がきた。
それが、次の「レジャーランド&レクパーク総覧1994」の第一章「日本のレジャーランド考」(1993年11月発行)への寄稿である。
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同時期に所属学会からも全国大会(東京・玉川大学にて開催)での発表依頼と掲載された学会誌の論文(当時銀行系の住信基礎研究所からオムロン系のヒューマンルネッサンス研究所へ移籍をしたばかり)
以上のように、研究テーマが面白ければ、芋づる式に仕事が舞い込み、全国から寄稿や講演の依頼、そしてコンサルティングの仕事が入ってきたのである。
研究員冥利に尽きないことは、この芋づる式の仕事発生や次の移籍先(1994年より)の研究所(オムロンの社会文化研究所)で、”コミュニティ・ビジネスが地域を元気にする”という新テーマとなって大きな花を咲かすのである。
29歳で普通のビジネスマンから研究所の研究員となり、かつ成果による年棒制となり、時間を気にすることもなく、眠気と格闘しながら、自由に研究テーマを考える時間が出来たことが、時には徹夜もいとわず、1週間同じ研究命題を考え続ける研究グセが付いたのである。このような研究グセも研究員としての矜持の一つである。
その想いの源は、当時日本のテーマパーク事業は、アメリカのようにショービジネスやエンターテイメントビジネスに関する知見やノウハウの蓄積に乏しく、特に、地方で苦戦している中規模の新規テーマパークを視察する度に、地方には地方にふさわしい地域資源を活用した、住民主体の小規模事業(地域開発、地域おこし)があるに違いない、という想いを強くしたことにある。
この想いが、1994年より移籍する新たな研究所(社会文化研究所)の地方創生の研究で、”コミュニティ・ビジネス(住民主体のスモール・ビジネス)が地域コミュニティを元気にする”という研究テーマとなって、大きく花を咲かすのである。
そして、その後、着工中の日本映画のテーマパークや”峠と鉄道”のテーマパークの事業性評価の仕事が入り、公私ともに忙しくなる。また鉄腕アトムで有名なプロダクションから自社のテーマパークに関する事業計画書を見て欲しいとの連絡が入り、その協力に応じたが、そのテーマパークの着手、完成を見なかったことが、しごく残念なことであった。当時景気がわるかったことも一因であるが、テーマパーク事業に着手しないことも選択肢の一つであり、当時としては大英断かもしれない。
こうした成功率の低い大規模な地域開発が、次に着手していった”住民主導のスモールビジネス”である”コミュニティ・ビジネス研究の反面教師”となって世の中を少しずつ変えていったのであった。
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