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日記・コラム・つぶやき

2020年6月 1日 (月)

無欲は有欲のはじめなり

有欲は、無欲のはじめなり
 
そして無欲は、有欲のはじめなり
 
こうして円い円満な欲が誕生する

細内信孝

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自然界は時折世直しの嵐を起こし、自然界の持続を保とうとします。そこでは、自然界の持続性と人間の望む成長性は鬩ぎ合い、人間はその山を乗り越えようと自然界に挑戦し、やがて自然と調和をしてきました。

細内信孝

 

2020年4月30日 (木)

コロナウイルスと情報理論には何らかの相関関係があるもの、と考える

4月も今日30日で満了。

当サイトへの今月アクセスのない県を確認してみたら、47都道府県中に4県あった。

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@niftyココログでは次のように規定している。

全体のアクセス数に対する、都道府県別のアクセス数の割合を表示しています。どの都道府県からのアクセス数が多いかを確認できます。

ではアクセスのない県の特徴を考察してみると、比較的人口が少なく、人口密度も少ない県である。

それは、岩手県、石川県、島根県、高知県の4県である。あとはずべての都道府県から当ブログにアクセスを頂いている。前述のアクセスのない県は、過去にアクセスがあったし、講演の仕事で4県とも訪れている。たまたまなのかもしれない。

もう一つの相関関係は、コロナ罹患者の少ない県(ただし石川県は除く、これは北陸新幹線の影響で異常値か?)である。

感染症は、人と人との接触密度の濃さでウイルス(情報)が移動し、発病するという。

ウイルスと情報理論には、何らかの相関関係があるものと考える昨今である。

2020年4月23日 (木)

オムロンの立石義雄さんのご逝去を惜しむ


私は、26年前になるが、オムロングループの生活文化の研究所研究課長として途中入社し、7年間在籍したことがある。当時立石義雄さんがオムロンの21世紀戦略を考える研究所の会長を務めていた。入社のきっかけは、立石義雄著『最適化社会へ』PHP研究所 1993年10月を読んで感銘を受け、立石さんへ手紙を書いたことに始まる。
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私のコミュニティ・ビジネスの根幹には、立石義雄さんのベンチャー精神とソーシャルニーズの事業化がある。また「オムロンは理念先行型の企業コンセプトで行く」という立石会長の言葉が強く印象に残っている。このオムロイズムが、私のその後(独立後)のコミュニティ・ビジネス論(理念先行型コンセプト)構築に大きなインパクトを与え続けている。
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演台に立つ細内の国際招待講演での一コマ
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私の最初の書籍「コミュニティ・ビジネス」(中央大学出版部 1999年発行)は、当時HRI会長であった立石義雄さんに直接手渡したが、今でもその時の最後の言葉を覚えている。『ありがとう、次もがんばれよ!』と。
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自称同志社大学能学部出身の豪放磊落の人だった。
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ご冥福をお祈りする。
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合掌

2019年12月24日 (火)

寅さんに見る、起業家教育は、みんなの根本精神を変えなきゃあ、変わらない

先日テレビで「少年寅次郎」が放映されていた。少年期の寅次郎の時代(昭和の初めころ~終戦後まで)から現在まで、わが国では、子供がお金を稼ごうとするとき、大人からたしなまれるシーンが多い。

少年寅次郎は江戸川でウナギを釣ることを得意としていた。生活費に困窮している友人と一緒にウナギ釣りをして、釣り上げたウナギを近所の料亭に売り、現金収入を得ていたのだ(実は釣り上げたウナギを金に換え、それによって友人の生活費を工面し、手助けをしていた)。

釣ったウナギを売って現金を得ていたことが母親に見つかり、「子供のうちからそんな下品なことをするものでない!(当方の意訳)」とこっぴどく怒られるのである。

この大人から見た下品なマインドは、いまの起業家育成マインドにはそぐわないものと小生には見えた。

いま子供のうちから起業に関する理屈やマインド育成を小学校や中学校、高校で教えても、ジジババ世代、親世代のマインドを変えない限り、すなわち子供が金を稼ぐことを下品なもの、はしたないものという価値観を変えない限り、すぐには変わらないのである。

囲碁や将棋の世界に、そしてスポーツの世界に子供のプロが生まれる時代だが、3世代にわたる”価値の転換”が起きない限り、日本社会の起業家マインド、そして新規開業率は相変わらず5%台のままであろう。現在、大方の国民のマインドは寄らば大樹が基本だ。

欧米先進国の新規開業率10%に追い付くには、子供のうちから目的に合わせて手段を考えさせ、良しとする事業(大人の目から見ても適正な事業)なら子供のうちからプロとアマの垣根を取り外すことが肝要ではないか、と私は考える。

寅次郎は実の父親とそりが合わず、中学を卒業と同時に家を出て、バナナのたたき売りから全国を回る的屋の道(毎日起業しているようなもの)を歩んでいくことになるが、その後の活躍は、松竹映画『男はつらいよ』(山田洋次監督)のフーテンの寅さんの通りである。

この令和元年12月27日に再び寅さんが劇場に帰ってくる。50作目の「男はつらいよ お帰り!寅さん」だ。

寅さんの起業家マインドを劇場でじっくりと見てみようではないか!

☆彡

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*画像をクリックすると拡大します

☆そういえば岡山県の城下町津山にも寅さんが来たね

 私も、全国を講演セミナーで回る寅さん家業だ

 

 

 

 

2019年11月26日 (火)

世の中、スマート化流行り

世の中、只今スマート化の流れだ。

最近日本国の政府専用機も大型のジャンボジェット機から777などの中型機に機種変更された。

また地方都市では千人規模の文化ホールから400人~500人収容の中型の文化ホールが、その稼働率と収益率を上げている。

東京銀座の歌舞伎座の収容人数は1800人だが、それに対し東京郊外部の400人規模の文化ホールは、興業リスクを低減し、音響設備をさらに整え、ますます集客を容易いものにしている。

江戸のむかしから興行をうつことは、たいへん難しい仕事である。毎日お客を呼ばなければならない。集客するためにさまざまな創意工夫が求められる。幕間に弁当を売れば、それが幕の内弁当となり、太鼓をうてばそれが観客席の料金が安くなるよ、という合図だ。こうして興行文化は作られていった。

アイコンタクトの通じる日本では、当然興行はどんぶり勘定になりがちだ。

米国のようなエンターテイメント・ビジネスにはまだ至ってない。しかし1980年以降、TDLの開園やJリーグの発足、日米野球の交流、プロスポーツ化、東京五輪などで、わが国もそのスキームを整えつつある。

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そして世のお会社は、わが国の人口減少に伴い、今後市場のパイが縮小するだろうという予測から、海外進出、売上至上主義から利益志向へと、その潮目の変化にのって、組織のスマート化へと大きく乗り出している。

企業の内部留保はすでに450兆円を越えるほど、たっぷり貯めこんだ。

すでにお会社はスマート化して日本の人口減少社会に備えている。

 

 

 

 

2019年11月 4日 (月)

あの人の心に残る珠玉の一言その4、福井謙一ノーベル化学賞受賞者

2019年ノーベル化学賞に日本の吉野先生の受賞が決定したが、化学賞は日本人の受賞者が多い分野の一つである。

ノーベル化学賞のニュースの度に思い出されるのは、日本人で最初にノーベル化学賞を受賞された福井謙一先生のことである。今から25年前になるだろうか。

小生、福井謙一先生の前座講演をしたことがあり、私の講演人生から見ても、そのことが私の矜持の一つになっている。

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*以下、画像をクリックすると拡大します

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それは、大分で行われた豊の国シンポ94である。

テーマは『21世紀をクリエイトする発想の原点を探る』と題して開催されたもので、当時京都大学の基礎化学研究所所長をされていた福井謙一先生が招聘され、ノーベル賞の受賞テーマ「フロンティア理論」について講演されたが、その前座講演の何人かの講演者たちのトップをきって、小生も『情報財の価値について』と題して、講演した時のものが次に掲げる写真である。

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後日送られてきたシンポ、講演の内容をまとめたブックレット

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当日関係者に配付された福井謙一先生の自筆の講演原稿

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☆彡

当日の講演録は、正式に『豊の国シンポ94』ブックレットとして写真のような黄色い小冊子になっている。

シンポジウム終了後、事務局さんの計らいで福井謙一先生たちと食事をご一緒したが、新しいことに挑戦するのが真の研究者であるという力強い言葉を頂いたのが、今でも心に強く残っている。そして関アジと関サバの生きのよい食味も忘れ難い思い出である。

☆彡

2019年10月 6日 (日)

北関東の3県茨城、栃木、群馬は、なぜ国民の印象が薄いのか

東京から見た田舎は、ずばり北関東3県の茨城県、栃木県、群馬県である。

そして東京人(都民+千葉県、埼玉県、神奈川県の一部は東京都民であると思い込んでいるだけ)から見た宮崎県、高知県、岡山県、秋田県、岩手県(この5県選定は意図がありません)などは田舎ではない。それらはあくまで地方の一つである。だから政府は”地方創生”を政策の一つに掲げているが、田舎創生は掲げていない。

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シティセールスはバス広告にも及び競争激化だ

*画像をクリックすると拡大します

そうした東京人は、自分の生活圏である東京都を生活基盤とするが、彼らの”田舎地”である北関東にはめったに出かけないよって北関東3県は彼らにとって、とても印象が薄いのである

また東京人のバケーションは、北関東の田舎地に行かず、地方や海外に行くますます北関東3県は印象が薄くなるのである。

そして戦後ずーっと、北関東3県は全国に波及する情報発信手段を持たなかったし持つ必要も生じなかった。その一つに例えば、栃木県は最近まで県内をカバーする独自の民放テレビ局がなかった。半面東京人と同じテレビ映像がすべて映るという”都会・田舎(とかいなか)”という、半ば茶化されたキーワードに自己満足していた。プロスポーツチームも同様で、最近まで県内にプロチームは誕生していなかった。プロスポーツチームの誕生は、全国の都道府県の中でもかなり遅い方であるこれでは栃木県としてのアイデンティは育たないし、また東京人(田舎都民も含む)や地方人から見ても、栃木県にほぼ類似する北関東の茨城県、群馬県も同様に、東京の田舎はまったく印象に残らないのである。

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*画像をクリックすると拡大します

これには、江戸時代に起因する背景がある。徳川の支配地が関東の大部分を占めていたが、特に北関東3県は、徳川の親衛隊である旗本領地が大多数を占めていた。たとえば一つの村を旗本複数家が治める”相給(あいきゅう)”という分割状態が長く続き、それらが村内や村同士の対立を生み、まとまりのかけた統治文化が北関東の3県エリアを大きく支配していた。

熊本藩や鹿児島藩、仙台藩のような大藩による一体感もないし、村を支配する殿様(旗本、地頭)が江戸在住では、独自性を出すこともしにくい状況にあった。この支配体制による生活文化(お上・殿様に従順であれ!)が現代まで引き継がれているのが、北関東の茨城、栃木、群馬の3県である。そして埼玉県、千葉県、神奈川県(東京隣接地の中には、自分は東京に通う東京人であると思い込んでいる田舎都民がいるから尚更たちが悪い)にも、その影響が色濃く残っているのが関東地方である。

このことが、40年間にわたり全国各地を講演・セミナーの仕事で歩いてきたことと生を受けてから高校まで多感な青少年期を北関東で育った歴史研究者地域コミュニティ研究者である、私の経験則的持論である。

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商工会議所青年部(YEG)における講演風景。お隣は当時の福田栃木県知事。

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2019年10月 5日 (土)

あの人の心に残る珠玉の一言その3、コシノジュンコさん、川淵三郎さん

この夏、日経新聞の「私の履歴書」のコシノジュンコさんの記事を読んでいて思い出した。平成15年3月に国土交通省から依頼されて地域活性化貢献表彰時に記念講演を頼まれたとき、その審査委員としてコシノジュンコさんが参加されていたが、コシノジュンコさんとイケメンの旦那さんの二人同時に名刺交換をしたのを覚えている。「私の履歴書」でコシノジュンコさんが述べている通り、 積極的で素敵な旦那さんだなと思った次第である。その後、旦那さんからファッションショー、お店の案内などのレターを何度か頂いたからである。

*画像をクリックすると拡大します

コシノさんの地元大阪に目を移すと、大阪のシンボル大坂城では1614~15年に豊臣と徳川の戦が行われた。大坂の陣である。

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☆大坂冬の陣、谷町口の守りに15代前のご先祖、井上時利の名が見える

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☆大坂夏の陣、道明寺の戦い。誉田陵近くに戦国武将井上時利の名が見える

閑話休題

小生、仕事柄、時の人のお話を聞く機会が少なくない。サッカーJリーグ発足前の時の人、川渕三郎さんの講演会に参加してみた。講演会終了後、名刺交換を希望する人たちの列に加わり、名刺交換時に川渕さんへ一つ質問を投げかけてみた。「選手の時代からプロサッカーJリーグの発足まで、続けてこれたその原動力は何ですか?」、川渕さん曰く「パッションを持ち続けることが大切ですよ」。

教訓:『何事も情熱を持ち続けて、一つのことにこだわることが大切』

*余談

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☆旗本井上家にあった元禄時代の家系図

戦国武将井上時利(長井隼人正道利の三男、家系図では井上小左衛門利定)は、美濃国太守の斎藤道三、織田総本家伊勢守家・守護代の織田信安の孫(正確には時利の妻がその孫にあたる)で、関ヶ原の戦いでは織田秀信(信長の孫)方につき、その結果知行地を召し上げられる。大坂夏の陣では豊臣方として後藤又兵衛や真田幸村らと共に道明寺の戦いで討死。しかし、その志(熱意)とこだわり続けた戦歴(関ケ原で西軍、大坂の陣で秀頼方)が徳川家康に認められ、その息子(井上義利、家系図では井上利仲)は赦され2代将軍秀忠の旗本に召し抱えられる。さらに5代将軍綱吉時代に綱吉の息子(夭折)の小姓として別家設立。旗本井上家は、こうして明治維新まで本家、分家とも生き延びるのである。

☆彡

2019年10月 4日 (金)

あの人の心に残る珠玉の一言その2、藤田太寅さん

60歳を超えると、若いときに先輩諸氏から頂いたアドバイスが蘇えってくる。

小生、2001年にはじめてNHK教育の「21世紀ビジネス塾」に2話連続のコミュニティ・ビジネスの解説でテレビデビューを果たした。

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☆藤田さんとの対話が収録され、本になったもの

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その時の司会者が、NHKアナウンサーの藤田太寅さん。藤田さんから『テレビでは、司会者とのやりとりはなるべく短く、30秒から40秒で、長くても60秒で自分の考えをコンパクトにまとめ、すぐに司会者に戻すこと。』とアドバイスをいただいた。

その2話の番組は無事収録が済んで放送が成されたが、しかし、その翌年のNHK総合の「クローズアップ現代」には活かしきれなかった。コミュニティ・ビジネス特集の解説者として出演したが、司会の国谷さんからの問いに2分30秒近く一人で話しをしてしまい。藤田さんからの珠玉の一言を活かしきれなかった。クロ現は生放送で、撮り直しのきかない番組だったのだ。放送終了後、番組の制作統括者からウイットの効いたお言葉をいただいた。『後半の対話部分は良かったですね。』と、思わず顔が赤面する小生であった。生放送であがってしまったのである。

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☆その後、NHKのテレビ番組には、30本ほどの番組に出演する機会を頂いたが、藤田太寅さんのアドバイスをいつも胸に秘めて番組に臨んでいる。

そしてNHKのテレビといえば、失敗談が1つ。2000年代に『難問解決!ご近所の底力』というバラエティー番組が8年くらい続いたが、後半にMCが堀尾さんから和田アキ子さんに代わった。

当時小生は年に2~3回くらいの頻度で、まちの専門家として呼ばれていたが、その回は、和田アキ子さんの隣りでコメントを述べる立場にあったが、つい和田さんに圧倒され、あがってしまったのか、少し寡黙になってしまった。テレビ番組の収録は無事終了したが、積極性が足らなかったのか、担当の女性ディレクターから、『いつもとちがいましたね、どうしましたか?』と言われてしまった。

我ながら先入観に縛られ、意外にも小心者である自己という存在に気づいた。『人を先入観で捉えてはいけない』という重い教訓を得たわけである。次は失敗を繰り返さないぞ、と強く心に誓った次第である。

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☆彡

2019年10月 3日 (木)

潮目が変わるとき、何かが起こる

良心的なお店ほど苦境に立たされている昨今。

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国産の農水産物はうなぎ登りに価格が上昇し、併せて人手不足で人件費が高騰している。

個人のお店では負担しきれないコンピュータ・システム化の更新に、消費税のアップとトリプルパンチを受けている。

後継者が見つからないところは、廃業も視野に入れて準備を始めた。

小さくて、スマートなことが利点になる時代なのに何かがずれ始めている。

異常気象や人口減少、超高齢少子社会だけでは説明しにくい状況だ。

潮目が変わるとき、何かが起こる。

 

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