歴史

2019年5月13日 (月)

江戸の切れ者、筆頭大目付・井上美濃守利恭

美濃国の戦国武将、井上3兄弟の3男井上定利(利定)の長男に井上利義(利仲)がいるが、大阪の役後二条城で徳川家康に御目見えし、許され、井上家初代の直参旗本となる。その系譜が徳川綱吉の時、綱吉の嫡子に仕える形で井上分家が誕生したが、若君さま早世により一時小普請入りするが奉公に励み、本家分家とも幕末まで御家を全うする。

両家とも家禄500石で、極官としては布衣の組頭、留守居、若年寄支配の奉行などがほとんどだが、中には従5位下美濃守(諸大夫)を叙付された当主がいた。彼の名は、井上美濃守利恭(1749年―1820年)といい、1798年に49歳で作事奉行(役高2000石)からの栄転で大目付(役高3000石)を仰せつかり、62歳までの13年間にわたりお役目を果たした人物である。

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彼の大役の一つ、徳川家斉の時代(1810年)に朝鮮通信使の幕府供応役を務めたことである。正史が小笠原小倉藩主、副使が脇坂竜野藩主で、いずれも大名であるが、幕府の実務的責任者・御用掛を当時の筆頭大目付兼帯道中奉行の井上美濃守利恭が務めたのである。

歴史的には江戸時代最後の朝鮮通信使といわれ、朝鮮通信使は本来江戸の将軍に朝鮮国王の国書を携えて謁見するが、その江戸まで来ずに長崎の対馬で供応したことが記されている。これは双方合意の上で成立したもので、財政的にも相互に負担を減らす効果があったという(本来江戸までの道中供応には100万両かかるが、朝鮮国の日本側窓口の対馬で行うことで、幕府は38万両で済ませたという、しかも江戸から3000人を派遣することで簡易に済ませている)。井上美濃守利恭は、儀礼にかかわる一切の仕事を完了させて、翌1811年に江戸に戻ったことが幕府の公的記録に残っている。彼にとって心身共にたいへんな重責を果たしたことになる。慶賀の朝鮮通信使の供応には、100万両はかかるといわれている経費を、その半分以下に抑えた手腕は、彼の京都町奉行、作事奉行時代に培った経済コストを考えた手法といっても良いだろう。まさに切れ者美濃守である。

これを知ったのも2017年岡山での仕事の帰りに、岡山在住の旧知の友・中山氏と岡山県牛窓町にある朝鮮通信使資料館を訪ねたことに始まる。

井上美濃守利恭の職歴が、今風にいえば典型的なキャリア官僚コースであるので、当ブログにてご紹介しよう。

彼は、18歳で将軍家治にお目見えし、井上本家の家督を継ぎ、小普請入りを果たしている。そして20歳で小姓組入りし、20歳代は進物御番を務めている。34歳で将軍外出時の警護を担当する小十人頭(現場の警護責任者で役高1000石)となり、布衣(6位相当)を許されている。

37歳で旗本5000家を取り締まる目付に就き、39歳(1788年)で遠国奉行の一つ、京都町奉行(役高2000石)に就任している。当時幕府は体面を保つため、江戸から京都に向かう遠国の奉行職には、赴任手当として300両を下している。京都の町の半分が燃えた大火直後に、京都の町の治安維持と町の再生に江戸幕府官僚の若手のエース級を江戸から送り込んだことになる。ここまでは順調なエリートコースであり、家格500石ながら役高は4倍の2000石、そして官位は大名クラスの従5位下美濃守を賜っている。

彼は42歳になると江戸に戻り、今度は作事奉行を務めるがここで辣腕を振るう。江戸城の修復ばかりでなく、久能山東照宮や日光東照宮、世良田東照宮などの修繕責任者として現地に赴き、腕を振るうことになる。記録を見ると将軍から各地の修繕完了の度に大判の金子(黄金)を5枚、10枚と下賜されている。そして作事奉行としては7年間をつつがなく勤め、49歳でとうとう直参旗本の最高役職の一つ、大目付(役高3000石)に昇りつめるのである。その後、彼は大目付に13年間も在職し、在任中に筆頭大目付となり、道中奉行も兼帯し、美濃守といえば切れ者大目付の井上美濃守といわれるまでになった。

時は将軍家斉の寛政改革の世、寛政重修家譜によれば、作事奉行時代は、修繕を美しく仕上げ、経費を切り詰め、いわばコストカッターとしての手腕を発揮し、幕閣に井上美濃守ありといわれた。

62歳で大目付のまま朝鮮通信使(第12回)の幕臣筆頭供応役(あの遠山の金さんの父親が目付として同行)を長崎対馬でやり終え帰府すると、翌年の63歳には諸家系譜書継御用を相務め、徳川家斉の時代(50年間)を支えた有能な幕臣の一人となるのである。

井上美濃守71歳のおり、幕府に老衰願いが受理され、隠居を仰せつかり寄合旗本へ、その後幕府より養老料として切米300俵を賜り、72歳で鬼籍入りするまで、恙なくお役目を果たしている。

歴代の井上家の過去帳を見ると、一番長い戒名が付けられている。多忙のなかで後妻を迎え、江戸から長崎の対馬まで供応・御用掛として往復道中2年の歳月を費やし、切れもの井上美濃守利恭の人生は休むことのない、まさに走り続けた激務の一生であった。

 

井上3兄弟系譜の女系関係から頑固者を見出す

明治生まれの亡くなった母方の祖母は、最近まで親戚一同から彼女が長女であると思われていたが、私が祖母、つまりばあちゃんの実家の除籍謄本を取り寄せてから本当のことが分かった。

彼女は、実は四女でありながら、父親が若いとき(明治期に)本籍を移転したため、その後は長女として記載されたのである(昔はよくあること)。その除籍簿を見ると、ばあちゃん家の姉たち三人は、三歳未満で夭折している。家業の造り酒屋もカビが発生し、郡内随一の造り酒屋も大正末期に廃業を余儀なくされた。そうした不運続きの中で、彼女の父(私の曽祖父にあたる)は本籍地を替えたのであろう。

ばあちゃんの母親(曾祖母)は、明治のはじめに18歳で江戸旗本家から造り酒屋に嫁入りし、6人の子を生し、ばあちゃんが3歳の時、幼子たちを残してうら若き身の33歳で天国へと旅立っていった。その曾祖母から辿る先祖の女系史がとんでもないことになるのは最近のこと。歴史好きの私を日本の戦国時代へ駆り立てたのである。

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大阪冬の陣、豊臣秀頼方の鉄砲隊長、井上頼次または定次(長井道利の次男で秀吉・秀頼の黄母衣衆の一人、井上3兄弟の真ん中)は、秀頼から任された2千人の鉄砲隊を率いながらも、徳川方上杉勢の猛攻撃を受け、鴫野の戦いであえなく討ち死した。

祖母の母親(曾祖母)から遡る井上姓のご先祖は、この井上3兄弟の3番目から発祥し、鴫野で戦死した井上頼次(定次)の弟にあたる3男井上定利から始まる。井上定利も翌年の大坂夏の陣にて300名の兵を率いた道明寺の戦いで、薄田兼相らと共に討死している、井上定利の母親は、稲葉宗張の娘で、稲葉一鉄に繋がる稲葉一族であり、頑固一徹で有名な稲葉一鉄の息子(臼杵藩の藩祖)に斎藤道三の娘(長井道利の妹)が嫁ぎ、そんな関係から江戸の幕末まで大名稲葉家と旗本井上家は親戚付き合いをしている。

頑固一徹(一鉄)といえば、江戸末期に井上定利の末裔、旗本井上分家の当主井上収蔵には、賤ケ岳七本槍の一人・平野権平の末裔の旗本平野家から娘が嫁いでいる。また井上家の系図を見ると、江戸初期の旗本井上家2代目の井上利景の妻には、あの大久保彦左衛門の娘が嫁いできている。こうして稲葉一鉄、平野権平、大久保彦左衛門と女系繋がりながら、頑固もの3人衆のDNAが井上家には脈々と受け継がれていることになる。その子孫はどんな頑固者になることやら心配である。肥後のもっこす、土佐のいごっそう、津軽のじょぱりにも負けない頑固者になるかもしれない。武家というプライドがあるだけに誰にも負けない真の頑固者かもしれない。

 

 

 

2019年4月 9日 (火)

美濃国の黄母衣衆、井上3兄弟

美濃の国の戦国武将に長井斎藤(のちに井上に改姓)の3兄弟と呼ばれる屈強の若者たちがいた。

彼らの父親は、長井隼人正道利といい、国盗り物語の主人公斎藤道三の弟とも、または斎藤家の家老長井長弘の子とも、そして斎藤道三の庶子ともいわれ、後・斎藤三代(秀龍道三、義龍、龍興)に仕える家老だった。しかし後斎藤一門の中で内訌が起き、国主を引退した斎藤道三とその長男・義龍に分かれ、とうとう道三は義龍に打ち取られてしまった。

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隣国の尾張の国もそれに呼応するように、尾張上四郡の守護代織田伊勢守家・織田信安と尾張下四郡の織田大和守家は国内で対立していた。大和守家を支える三奉行の一人に織田信秀でおり、その息子に織田信長がいた。この美濃と尾張のたすき掛けした同盟関係の結果、斎藤道三プラス織田信秀(道三の娘婿信長)の同盟軍と斎藤義龍(家老・長井道利)プラス織田伊勢守家織田信安の同盟軍が濃尾両国内で睨み合っていた。やがて織田信秀は病にて死去し、斎藤道三は息子の義龍に長良川の戦いで討たれることになる。

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そうして時代は、斎藤義龍(その家老長井道利)と織田信長の対立の時代を迎える。やがて信長は義龍の病死に助けられる格好だが、濃尾両国の覇権を得る。それでも信長は、義龍の子・斎藤龍興とその家老長井道利(のちに信長と反目した14代将軍足利義昭の家臣となり、将軍命令で和田の援軍として摂津国で討死)を美濃国から追放するまで7年も費やしている。それほど美濃の国は、信長にとって強国で手ごわい相手だったのである。

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長井道利の子3人は、主家の斎藤氏が滅ぶと長井姓を変えて、長井の井の字を上にあげて井上と称した、と現代の井上家(利長流)のご当主から直接伺ったのは、今から6年前のことである。その井上さんは、私の母と従兄弟関係にある。道利の子・3人はそれにより井上3兄弟となり、織田信長の軍門に下るのである。

長男の井上道勝と次男の井上頼次は、織田信長の配下を経て、その後豊臣秀吉、秀頼の親衛隊・侍大将格の黄母衣衆に加わるのであるが、井上道勝は、初め織田信長に仕え、その後豊臣の黄母衣衆、そして最後は池田輝政の客分として仕えた。道勝の長子・長井新太郎は、織田信忠に仕えたが本能寺の変に会い、二条御所で織田信忠とともに討死した(本能寺の変、二条御所では信忠方の親衛隊として、長井新太郎、道三末子の斎藤新五郎、赤座永兼が揃って討死した)。よって道勝家は、娘婿の子・纐纈三十郎が長井の名跡を次いで池田藩士となって仕えたが、諸所の問題により微禄となったためか、その後。数代を経て池田藩を脱藩し、行方不明となったと記されている(2017年7月に仕事で訪問した岡山県で、帰りに立ち寄った岡山大学付属図書館にて、その所蔵の池田家文庫「池田家除け帳」を紹介され、そこにそう記してあった。その際、偶然にもその場にいらした倉地岡山大学名誉教授から直接、その解説をしていただいた。)

次男井上頼次も、豊臣家の黄母衣衆の一人、その後は大坂の陣で豊臣方の鉄砲隊長として兵2千人を率いるが、徳川方の上杉軍の猛攻に会い、冬の陣にて討死する。頼次の子孫の存在は不明である。

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三男の井上小左衛門こと井上定利(母は稲葉宗張の娘、臨済宗の井上家菩提寺の過去帳にもそう記載あり、稲葉一鉄の一族か?)は、織田信忠、秀信(信長の孫・三法師)の傘下に納まるが、その後豊臣政権下では摂津の国の代官、関ヶ原の戦いでは織田秀信方についたため、戦後徳川から領地を召し上げられ、浪人となる。大坂の陣では秀頼方の侍大将格で大阪城に入城。その際、定利の子、利中は人質として父とともに大坂城に入る。井上小左衛門は、夏の陣の道明寺の戦いで兵300人を率いるが薄田兼相とともに討死。子の利中は落ち延びて石清水八幡宮(岩本坊)に潜伏中に見つかり、その後板倉勝重や織田有楽、秀忠の妻らの哀願により、二条城で徳川家康に面会し、その罪を許され、2代将軍徳川秀忠の直参旗本として復活し、幕臣井上家2家は江戸幕末まで続き、大目付、道中奉行、作事奉行、目付、駿府武具奉行、西の丸留守居、二の丸留守居、お納戸役などを輩出し、その子孫たちは現代まで続くのである。

 井上定利の妻は、織田信長・信忠配下の赤座永兼(京都二条御所で織田信忠とともに討死)の娘、赤座永兼の妻は尾張上4郡守護代・織田伊勢守家の織田信安の娘で、その信安の妻は信長の祖父の娘(つまり信長の叔母)で斎藤家と織田家は複雑に婚姻関係を重ね、同盟関係と内訌を繰り返していた。そうして井上定利系譜の旗本井上家(本家、分家あり)には、斎藤長井家ばかりでなく、女系を通じて織田本流の血脈、赤座の血筋が入っていることになる。井上定利の妻(旗本初代利義の母)は、赤座永兼の娘だが、京都伏見で太閤に仕えていた時、伏見の大地震が起き、その時の立ち居振る舞いを太閤から称賛され、長く子孫にわたり菊桐の家紋(十六葉菊と五七桐)を授けられた。

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なお井上3兄弟の末弟として、徳川家光の時代に起きた紫衣事件で有名な沢庵和尚と一緒に流された京都大徳寺(臨済宗大徳寺派)の住持玉室宗伯(芳春院の開祖)がいるが、歴史はつながるもので、のちに徳川家斉11代将軍の旗本井上本家の当主井上美濃守利恭が京都町奉行を務めているとき、彼の幼子が夭折し、その亡骸を大徳寺芳春院に埋葬している(井上家の過去帳にてその記載を発見する)。芳春院の開祖は、長井道利の子・玉室宗伯(道利の妻・稲葉宗張の娘が育てる)であり、そうしたことからも深いつながりを感じるものである。

細内所長の歴史スペクタル

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*画像をクリックすると拡大します

 

2018年8月 9日 (木)

私の歴史スペクタル

過去の当ブログに掲載した細内所長の歴史観を一堂に集めてみました。

戦国時代、江戸時代を中心にした歴史観の集大成です。
写真は、長井斎藤、井上家の家系図(元旗本井上家で写す、元禄時代のもの)
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*右端に斎藤山城守道三の名前が見える。長井隼人正には3人の息子がおり、井上3兄弟としてその名前が上段にある。斎藤道三には、19人の子供がいたという。その血脈は大名の稲葉家、公家を通して現代の皇室にまでつながっている。信長室という道三の娘・濃姫・帰蝶の名前も見える。
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1.あなたの先祖にあの有名な歴史的人物がいるかもしれない

 http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-9eed.html 

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*斎藤道三肖像画は娘の濃姫が斎藤家の菩提寺に寄贈したもの
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2.今昔物語、芋粥をご馳走するご先祖様とは?

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*金沢駅の戦国武将・前田利家の絵

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.直参旗本の生活経済学

http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-634f.html

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4.われ森鴎外の史伝にならい、わが家の女系史伝をなさんとほっす   

http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-da30.html

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5.森鴎外へのアンサー編「わが家の『伊沢蘭』に続く女系図物語」
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6.将軍秀忠妻お江と親戚関係にあった井上時利
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7.旅のブログ700回記念、江戸の歴史は白い

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8.武家の慣習が今も生き続ける日本の役所
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9.戦国武将長井道利の真実、ついに過去帳を発見
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10.私のご先祖探しはつづく、どこまでも
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11.大政奉還から150年、武家の商売はその後うまくいったのか、岡山奉還町商店街
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12.岡山県倉敷市の楯築弥生墳丘墓の謎に迫る
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13.司馬遼太郎が著したスズカケの木の歴史観は終わったか?
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14.戦国武将長井道利の義父?稲葉良籌について
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15.日本史オムニバス、長井忠左衛門のこと
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16.地域の歴史風土と先祖の生きざま
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17.ルーツ探しとコミュニティ研究
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18.尾張名古屋は人でもつ
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19.美濃の国を行く、道三ゆかりの地
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20.墨田の葛飾北斎
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21.私の仕事は一期一会を地で行く寅さん稼業
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22.この国の”魔の風体”、すなわち魔風の意味を考える
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*前九年後三年の役に出陣する源義家を称えた銅像(武蔵国一宮へ戦勝祈願したと伝わる)
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縄文の亀ヶ岡式土器や遮光器土偶は素晴らしい日本の文化(青森県つがる市のJR東日本木造駅)
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23.美濃国の黄母衣衆、井上3兄弟
(2019.4.10 追記)
主家斎藤氏の滅亡で長井から井上へ
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24.井上3兄弟系譜の女系関係から頑固者を見出す
(2019.5.13 追記)
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25.江戸のキャリア官僚、筆頭大目付、切れ者井上美濃守利恭
(2019.5.13 追記)
岐阜城天守閣より岐阜市内を遠望する
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*画像をクリックすると拡大します
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岐阜城は、まさに天下人の気分になれるところ

 

2018年1月12日 (金)

将軍秀忠妻お江と親戚関係にあった井上時利

歴史好きな細内所長のよもやま話

旗本井上家 http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-da30.html の続編

☆彡閑話休題

織田信長の孫、三法師こと織田秀信(美濃国の稲葉山城を拠点とする)は、1600年関ヶ原で豊臣方の西軍についた。

そのため戦後、多くの美濃国人衆は織田秀信についたため徳川家康の裁定で領地を失い、浪人となったものは少なくなかった

☆過去帳の一部

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歴史書では長井道利が一般的だが、旗本井上家所蔵の関係資料では、忌み名の”利”は最初にくることが多く、長井隼人正利道となっている。齊藤山城守のみ正利で”利”が下についている。

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斉藤道三の庶子・長井隼人正道利(美濃齊藤家の3代目齊藤龍興の家老として最後まで織田信長に抵抗する)の息子、井上3兄弟も主家齊藤家が信長に滅ぼされてから、苗字を長井から井の字を上にあげて井上に改名し、その後織田信長、豊臣秀吉、秀頼に仕えた。3兄弟の長男井上道勝は秀吉の黄母衣衆の一人といわれた。次男の井上頼次は大坂冬の陣で豊臣方の鉄砲隊長として討ち死したが、今回は井上3兄弟の三男・井上時利(小左衛門尉定利)に焦点を当てたい。

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京都大山崎の油祖離宮八幡宮(岩清水八幡宮元宮)にて、第48代津田宮司さんと記念写真を撮る(戦国期に菜種油の油座があったお宮である)

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井上時利の母は文献では不明だが、旗本井上家のお寺過去帳には、長井道利の妻として稲葉宗張の娘が記載されている。たぶん文献に出てくる道利の妻、すなわち遠藤氏の元妻を後妻に迎えたが、織田信長により美濃追放前後に離縁し、彼女の子息のいる遠藤氏のもと・郡上八幡?へ帰したものと思われる。よって三男井上時利(1566年生まれ?)の母は稲葉氏の可能性がある。

⇒その推測は以前、当ブログ http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-79d3.html で取り上げている

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時利は関ヶ原の戦いで西軍につき、先ほどの理由で1600年以降は浪人となるが、1614年の大坂の陣で豊臣秀頼から召され、侍大将の一人として、道明寺の戦いで薄田兼相らと一緒に討死する。

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井上時利の嫡男井上利中(母は赤座七郎右衛門の娘(赤座七郎右衛門の妻は織田信安の娘)、つまり彼は長井齊藤氏、赤座氏、織田氏、稲葉氏?の血筋を受け継いでいたことになる)は、当時12歳で父の人質として大坂城にいたが、落城後、京都の石清水八幡宮に落ちのびていた(赤座七郎右衛門は齊藤道三の家来、織田信安は齊藤義龍、龍興の家来という)という。

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この少年井上利中が2代将軍徳川秀忠の妻・お江や織田有楽斎、板倉勝重京都所司代らの助命嘆願によって、大坂夏の陣後すぐに二条城で徳川家康に面会し、罪を許され、徳川秀忠の直参旗本となるのである。

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その理由として考えられるのは、お江は浅井氏の出(浅井長政の娘、淀殿の妹、母親お市は織田家の血筋)、後・齋藤の3代目齊藤龍興の正室は浅井氏の出で、その龍興の家老が長井道利(利中の祖父)である。寛政譜によれば、道利の妻は稲葉宗張の娘であり、井上時利の妻にはすでに述べたように織田家の血も入っている。すなわちお江と井上時利は織田家を通じて従兄弟関係にあり、利中はお江からすれば従兄弟の子であり、織田有楽斎も同じ関係になる。助けないわけにはいかないのである。

だからこそ、井上時利の嫡男・利中を助けたのである。関ヶ原、大坂の陣と立て続けに負けても、その罪を家康から許され、徳川家の親衛隊・旗本井上家として、本家、分家(徳川綱吉の嫡男徳松君の小姓として、将軍家から別家設立の許可を得る)ともに、それぞれ500石で明治維新、現代まで生き残るのである。

☆彡

2017年9月15日 (金)

日本史オムニバス、長井忠左衛門のこと

六尺の大男といえば、身長180㎝の男子のこと。 西郷どんも、坂本はんも、福澤諭吉さんもみんな六尺の韋駄天だった。 当時日本男児の平均身長は153㎝くらいだから、庶民は彼らを見上げるようにして話をしていた。 二宮尊徳さんも六尺の大男だった。 幕末の一大事を成し遂げた人物は、おおむね韋駄天の大男だった。 しかし幕臣勝海舟は150cmくらいの小男だった。 そういえばナポレオンも小男である。

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*東京墨田区にある能勢の妙見山にある勝海舟像(妙見さんは旗本能勢家の屋敷内にあったもの)
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下野国足尾郷は江戸幕府の銅山直轄地であったが、幕末のころ銅の産出が枯れ、天保の飢饉の煽りも受け、農民(当時は住民といわず農民といった)の流失が相次いだそうだ。明治10年古河市兵衛(古河財閥の祖)がその銅山を安価で明治政府から払下げを受け、その後、銅の大鉱脈を発見し、古河は財を成していく。と同時に、わが国は、近代国家として殖産興業、坂の上の雲を目指して躍進が始まる。
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その歴史の1ページを栃木県にある稲荷神社から推し量ることが出来る。現在の日光市足尾町切幹の稲荷神社(元は京都伏見稲荷から分祀か?)から分祀された宇都宮市西川田町996の稲荷神社(石塔から1846年ころの創建か)である。
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それは足尾からの農民移住がもたらしたもので、幕末時に足尾郷原集落の農民数名が新天地の下野国河内郡西川田村(現在の宇都宮市西川田町)に移住し、新田開発を行い、そこに故郷足尾の稲荷神社を勧請した?のである。
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移住した農民の戸籍簿を調べて見ると、1854年に移住先で子供が生まれている。開墾地での最初の子供である。
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こうして江戸幕府の威信体制が崩れ、西洋文明を積極的に取り入れた薩長土肥の近代国家を目指した”ご維新”が始まるのである。
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*大魔神は古代・古墳時代の武人埴輪がモチーフ
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*戦国時代創建の城は戦闘城で、カラスのように黒の場合が多い

美濃の戦国武将長井道利の長子・長井道勝は、またの名を長井忠左衛門といい、主家の斎藤家滅亡後は苗字を井上に変え、井上道勝と名乗った。いわゆる井上3兄弟の長男である。

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国会図書館から取り寄せた書誌「岡山藩家中諸士家譜五音寄1~3」(倉地編集)によれば、井上道勝は長良川の戦いで祖父(伯父?)齋藤道三を生け捕りにしようとしたが、取り押さえ損ない、あとから駆け付けた小牧源太に手柄を横取りされた。

その落胆のため高野山に引きこもり世をはかなんだが、豪傑がゆえに織田信長より召し出され、その後、信長配下の池田輝政の客分や太閤秀吉の親衛隊黄母衣衆の一人として豊臣家に仕えた。

井上道勝の子、長井新太郎は信長の子・織田信忠に仕えたが、本能寺の変で信忠と共に二条で討ち死にしている。

長井新太郎の子?、纐纈六右衛門から、纐纈三十郎、熊田所左エ門、長井権助と続き、岡山藩が家中諸士家譜の作成時(1690年頃?)に上述のような先祖書を提出したが、途中で纐纈、熊田姓などが記載され、養子?女系等でつながった可能性が高い。

しかし、その子孫は1819年の長井正之進をもって井上道勝(長井忠左衛門)の家系は途絶え(出奔した?)ている。そうしたことが岡山藩の池田家履歴略記に記載されている(下記参照)。

池田家履歴略記 上巻・下巻

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*池田家履歴略記 上巻・下巻

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*池田家の公式記録書(池田家履歴略記)に載っている長井忠左衛門のこと

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*木像は、権現様こと、徳川内府(織田信長は織田右府)、東照大権現・源朝臣家康

2017年8月15日 (火)

岡山県倉敷市の楯築弥生墳丘墓の謎に迫る

細内所長は、地域づくりという仕事柄、全国各地の古墳や墳丘墓、古代遺跡を数多く見歩きしてきた。

私は、北海道旭川の博物館では、アイヌ文化と北海道の土偶に触れ、青森県では、三内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡、福岡県吉井町(現・うきは市)では、筑後川添いの月岡古墳や珍塚古墳の壁画を拝見し、奄美の徳之島では、線刻石遺跡を案内され、吉備国では、造山古墳、作山古墳、両宮山古墳を案内してもらい、毛国(栃木・群馬)では、侍塚古墳、摩利支天古墳や太田天神山古墳、観音山古墳などに登頂し、宮崎の西都原古墳群では、借りた自転車ですべての古墳を巡回し、さらには大阪堺の大仙陵古墳では、その外縁部を歩いて一周し、その大きさを自ら体感したことを矜持としている古代史研究家である。

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今回はじめて、岡山県倉敷市にある楯築遺跡(弥生後期の墳丘墓)を訪ねる機会を得た。しかも偶然にも墳丘墓の管理をされている方に難儀をしているところを助けてもらい、その墳丘墓と収蔵庫を案内されて、実物のご神体・亀石や発掘された朱を見せてもらうことができた。まさに怪我の功名とはこのことである。不思議な体験である。
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ここの亀石は、実は2体あり、一つが収蔵庫にしっかりと保管され、もう一つの破壊されたものが整理されて岡山大学にある。大王の木棺を上下の亀石で守っていたのである。
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*墳丘部の石の祠に昔はご神体の亀石があったという

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*墳丘部の遠景

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*木棺が埋葬されていたという頂上部付近、岡山大学教授の近藤義郎氏(栃木県足利市出身)によって調査が進められた。近藤氏は月の輪古墳も発掘している。

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*中央の円墳から両脇に突き出しがあり、前方後円墳の始まりではないかと言われている

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*収蔵庫に保管されている朱、桐の小箱に分けて保管されていた。発掘時に32キログラムも出たという朱は、桐箱に納められていたが、小箱でもかなり重いものである。この朱(水銀)は中国製?であるといわれている。

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当日はカンカン照りのなか、JR吉備津駅から歩いて現地入りしたが、丘の上にある墳丘墓の入り口で地神さまと水神さまに偶然にも出会った。これらの石碑を見て、現代社会の地域神であるが、1800年前の弥生後期の神様・すなわちご神体が亀石ではないかとふと感じた。そして、この世とあの世を結ぶ結界の目印がご神体・亀石の役割ではないかと思った次第である。
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*楯築神社・墳丘墓への入り口に地神と水神が並んで鎮座している

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*住宅団地の造成で突き出し部分が失われてしまった(現況)

楯築遺跡からは、2つの亀石が出ているが1つはきれいな状態の孤帯石・ご神体、もう一つは多くの小片に破損された亀石(岡山大学で本物を見ることができた)だ。
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*小片に破壊され埋蔵されていたもう一つの亀石(写真は岡山県古代吉備文化財センターのHPより引用、岡山大学所蔵) 

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*墳丘部から出土した特殊器台(写真は岡山県古代吉備文化財センターのHPより引用、岡山大学所蔵)

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☆収蔵庫の正面に掛かる額の読み方は楯築宮?という

これは私の直感だが、亀石は前述の地神さまと水神さまの考えの源流(1800年前)ではないかと思っている。地神さまは小片に分解され地中に埋蔵された、そして地上に安置された亀石は水神さまとして、後世の楯築神社のご神体として大切に保管・安置されたのではないか、そう思いを強くした次第である。
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2017年6月 2日 (金)

戦国武将長井道利の義父?稲葉良籌について

細内所長の歴史研究の対象である旗本井上家の直接のご先祖にあたる美濃の戦国武将長井道利(?-1571)の義父?稲葉良籌について、下記写真の画賛の現代語訳が判明した。長井道利の妻は遠藤氏の未亡人を記載しているものもあるが、長井道利が織田信長に稲葉山城を追われてからは、遠藤氏の未亡人は故地の郡上八幡に帰っている。その後、稲葉良籌の娘と一緒になったものと考える。

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京都大徳寺の高桐院にある重文の稲葉良籌像。画賛は当時の大徳寺住持古嶽宗亘(1465-1548)によるもの。
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当方の依頼により京都高桐院の住職さんから直接ファクスでその画賛の内容が寄せられた。
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臨済宗大徳寺派では、稲葉良籌を稲葉宗張とも表記し、戦国武将長井道利の妻は、大徳寺派の過去帳には稲葉宗張の娘(女)と記載されている。
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上記写真は、稲葉良籌の画賛の現代語訳だが、これでも稲葉氏の誰に当たるか、今でも不明である。稲葉一鉄(稲葉藩藩祖の父、一鉄の父と兄5人が浅井氏との戦いで1525年に戦死したため、出家していた六男の一鉄が家督を相続した)の親族であることは間違いないだろう。
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1526年にこの画賛をしたためた大徳寺住持の古嶽宗亘の記録から類推するしかないだろう。室町幕府の権威は長引く応仁の乱で大きく失墜しており、同年には徳政令が出されている。
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前述ブログの佐藤論文には、幕末時に稲葉藩主の隠居連絡を、長井道利の子孫旗本井上美濃守家、別家井上分家(井上熊蔵は当方より6代前の先祖)とともに、その使者が派遣されていることからも、大名稲葉家と旗本井上両家は親戚関係を300年以上も続けていたことになる。それは旗本井上家の初代井上利義(利中)の祖母が稲葉良籌の娘(女)ではないかと私は見ている。
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稲葉良籌は、美濃国稲葉氏の誰に当たるのか、お分かりの方はご教示くだされ。
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2017年4月 8日 (土)

戦国武将長井道利の真実、過去帳を発見

細内が取り組んでいる旗本井上家の研究で、井上家の開祖である戦国武将長井道利(齋藤山城守正利の男と記載あり)の正室名が、その菩提寺(黒田家の建立)にある過去帳から判明した。長井道利は3度?正室を迎えている(1度目は井上兄弟の母か?しかし名前は不明、2度目は東常慶氏の娘、3度目が今回の稲葉宗張の娘、井上姓の3男井上時利:1566年生まれの母の可能性がある)。また齋藤道三の娘が稲葉一鉄の息子に嫁いでおり、豊後臼杵藩の藩祖稲葉貞通の正妻となっている。その血脈は公家を通して現在の皇室まで繫がっている。

☆そして稲葉家と井上家の付き合いは江戸幕末まで続く。(2015年7月5日の上記リンク記事<旗本井上家の研究>より;文献を検索していくと、さらに興味深い論文を目にした。それは佐藤論文(1998) の「大名の隠居・家督願について」の中に豊後臼杵藩5万石の11代当主稲葉氏の隠居に伴うお知らせ先に井上美濃守(井上本家・井上利泰大目付)と合わせて、分家・井上熊蔵の名前が出てくるのである。稲葉氏と井上(長井斎藤)氏は美濃国において稲葉宗張の戦国時代から親戚関係にあり(佐藤論文ではそこまで触れていないが)、300年後の江戸幕末までそうしたお付き合いを維持していたことは、下記の長井道利の正室・稲葉宗張の女(娘)からもその関係が類推できる

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*齋藤越前守利永に始まる長井斎藤流・井上氏の臨済宗過去帳
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過去帳には長井隼人正利道(元亀2年8月28日没)あり、菩提寺の過去帳上では道利が利道になっているが、これはよくあること。その左にあるのが同室、つまり道利の正室のことだが、歴史上では長井隼人佐の正室は東常慶の娘(遠藤慶隆の母)が一般的だが、ここでは稲葉宗張殿の女(娘)となっている。しかも慶長10年(1605年)に亡くなっている。また同じ京都・大徳寺の芳春院(前田家の建立、紫衣事件で沢庵と一緒に連座した玉室宗珀;長井道利の息子か?がその開祖:国立公文書館蔵の井上家家伝では玉室は長井道利の子供と記載)に、その正室の木像が安置されていると記載されている。つまり宗珀の母親の木造が芳春院にまつられていることになる。明治期の廃仏毀釈で現在不明の可能性がある。
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そこで稲葉宗張とは、いかなる人物か調べて見た。京都大徳寺の高桐院(細川家の建立)にその稲葉宗張(良籌)の肖像画を発見した。
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*稲葉宗張(良籌)の肖像画
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*大徳寺住持の古嶽宗亘によるその賛
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稲葉一鉄(1515~1588)の肖像画にも似ているが時代が違う。それは1526年に古嶽宗亘がその賛を書いていることからも分かる。1526年では稲葉一鉄がまだ11歳の時である。彼には5人の兄がいたから一鉄の兄たち、もしくはその父親(父を含め、いずれも牧田の戦いで戦死している)か、父親関連の稲葉一族かもしれない。
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肖像画の出典:文化庁監修『国宝・重要文化財大全』1絵画(上巻)毎日新聞社1997年
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*端正な顔立ちで30歳代の人物と思われる。この肖像画は国指定の重要文化財である。
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上述の長井斎藤家(藤原姓齋藤流井上氏)と稲葉家の親戚関係(長井道利の正室という立場上、井上時利や玉室宗珀の母の可能性は高い:少なくとも井上家の過去帳上はそうなっている)は、新しい発見である。だから日本の歴史は面白い(細内談)。
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☆姓は藤原、苗字は齋藤、禄は井上、公式の文章には必ずこう表記した旗本井上家
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☆長井豊後守から始まる家系図
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2017年2月24日 (金)

旅のブログ700回記念、江戸の歴史は面白い

江戸の歴史、ある旗本家の由来書から

写真は東京都港区愛宕神社の通称出世の階段(男坂86階の石段)、丸亀藩の武士曲垣平九郎が3代将軍家光の命で、この階段を馬で駆け上がったからすごい。

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ある旗本家の先祖書より抜粋
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江戸愛宕下に屋敷があった旗本井上別家の2代目当主・井上利實(本姓藤原氏)が所持していた「齋藤系図」を下野(元領地)で目にした(そして、それらをカメラに収めた)。<旗本の生活経済学はこちら> 
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*それは初代長井豊後守から始まるものだ。齋藤山城守(道三)も長井豊後守の子として記載されている。井上3兄弟の父・長井隼人正はその弟にあたる。織田信長室の帰蝶(濃姫)の名前もある。一色治部大輔は斎藤義龍のこと。稲葉右京亮は臼杵藩祖で稲葉一鉄の子。
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家系図の最後に元禄3年に彼が井上本家の井上(藤原)利盛より家系図(家系図の元は岡山池田藩士・齋藤弥三郎〈道三の子・利治の子孫〉が持っていたものと、最後に記してある)を借り、それを井上利實が写したものと記されている。元禄3年は西暦1690年で5代徳川綱吉の時代でまだ水戸黄門が水戸藩主のころだ。長井道利の家臣であった関藩主の大嶋雲八の名前も見える。
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井上姓の前は美濃国の長井姓で、織田信長により主家齋藤家が滅び、滅亡後にその子孫は井上姓に改姓した。しかし井上家の本姓は利仁流の藤原氏であり、今でも渋谷区広尾にある菩提寺の墓石には、藤原姓井上家と記されている。
(完)
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追記情報
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