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歴史

2020年6月 7日 (日)

私にもできる小さな社会貢献、地域文化の創造。調査し研究して、それを纏めて書籍にし、公立図書館に寄贈すること。

この女系史伝の制作は、講演、セミナーなど岐阜県内における仕事の合間に調査を踏まえ、着手から7年を費やして完成させたものである。

こうしてできた細内助之進著『美濃斎藤氏に繋がる藤姓井上家の女系史伝』コミュニティビジネス総合研究所出版部 2020年は、次の国公立図書館へ寄贈されました。

書籍は間もなく各図書館で登録され、お手元で確認することができるでしょう。詳しくは各図書館へ問い合わせをしてみましょう。

コミュニティビジネス総合研究所出版部 58頁 A5判 定価800円(税別)

<寄贈先図書館の所蔵状況>

  1. 国立国会図書館(登録済)
  2. 栃木県立図書館(登録済)
  3. 国立信州大学図書館(登録済)
  4. 国立岐阜大学図書館(登録済)
  5. 岐阜県図書館(登録審査中)
  6. 岡山県立図書館(登録審査中)
  7. 日光市立図書館(登録済)
  8. 下野市立図書館(登録済)
  9. 稲城市立図書館(登録済)
  10. 岐阜市立中央図書館(登録済)
  11. 長野県立図書館(登録審査中)
  12. 京都府立図書館(登録審査中)
  13. CINIIの登録状況

 

※新型コロナウイルスの影響で登録審査に少し時間がかかっています。

社会貢献型の普及を目指して制作された当社出版部発行の書籍はこちらから

アマゾンのキンドル版・電子書籍はこちらから

 

2020年4月 3日 (金)

書籍『美濃斎藤氏に繋がる藤姓井上家の女系史伝』細内助之進著が4月1日に発行された


コミュニティビジネス総合研究所出版部がおくる第3弾の書籍『美濃斎藤氏に繋がる藤姓井上家の女系史伝』細内助之進著が4月1日に発行された

ここ4年くらい仕事(地域おこし)で訪れた岐阜県岡山県での仕事終了後の単独取材をもとに新たに書き起こす

大河ドラマ『麒麟がくる』に登場する斎藤道三や織田信長などの末裔を訪ね、新事実をザクザクと掘り起こす

細内助之進(細内所長のペンネーム)のデビュー作です。

本文では、寛政重修家譜編集時に筆頭大目付兼帯道中奉行を務めた井上美濃守利恭(井上本家の切れ者美濃守)を取り上げています。寛政重修家譜完成以降、旗本井上家の家祖・長井道利は従来の斎藤道三の弟ではなく、その庶子?になりました。

井上美濃守は、寛政の改革の中心人物の一人で御所も炎上した京都大火を復興した当時の京都町奉行や全国(久能山、日光、世良田)の東照宮を修復した作事奉行、長崎の対馬で行われた最後の朝鮮通信使供応御用掛として、11代将軍徳川家斉を支える幕閣中心人物の一人です。

コミュニティビジネス総合研究所出版部 58頁 A5判 定価800円(税別)

☆彡

コミュニティ・ビジネスへのご賛同による当書籍の入手は、こちらから

*

2020年2月11日 (火)

「鶴瓶の家族に乾杯」岐阜市編の岡本太郎右衛門家の460年続く稼業の秘訣とは?

2020年2月10日にNHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯」の岐阜市編を見ていたが、その中で岐阜市の名門岡本太郎右衛門家のことに興味がわいた。そこで400年を超えるその家業の繁栄状況を考察してみた。

初代の岡本太郎右衛門さんは、岐阜(当時は井ノ口)において鋳物業を創業したのが西暦1560年だそうだから、当時の美濃国の治世は斎藤三代(道三、義龍、龍興)支配の時代である。そして現在の当主岡本太郎右衛門さん(90歳)は、ちょうどそこから15代目にあたるそうだ。

私のご先祖探しで分かったことであるが、斎藤三代に仕えた重臣の一人長井隼人正道利が当方のご先祖の一人(直系でなく、女系女系のつながりであり、明治期に旗本井上家からひいばあさんが嫁にきて繋がっただけで大したことではない)であることが判明したが、小生からさかのぼると長井隼人正道利はちょうど16代前にあたる。亡き母が存命していればちょうど90歳であるから、岡本太郎右衛門家の代数15代と一致することになる。


*家伝・旗本井上家の家系図(元禄年間に作成)を現在のご当主の許可を得て筆者が写す

そして現在の岡本家の家業(社業)を調べてみたら、460年も生き残り続けるには、家業をその時々のニーズに合わせ、着実に変化させ、そして進化させることが経営の秘訣であるということを掴んだ。それが当主の役目である。

日本では小さな業(家業)でも、時代の先行き、潮目の変化、経営を間違えなければ、こうして生き残りが可能なのである。

岡本+太郎+忠右衛門の忠右衛門尉は、当時武士のはやり名の一つで、長井道利の息子に井上忠右衛門道勝(書物により忠左衛門と記載するものもある)が実在するが、織田信長によって斎藤家が滅ぶと、彼は長井の井の字を上にあげて、井上と名字を変えた。長井道利の息子、井上三兄弟はそうして宿敵であった織田信長の旗下に下ったのである。勝者に遠慮して敗者が元の名字を変えることはよくあることであった。

☆彡

斎藤家重臣の戦国武将長井道利の補足説明(詳しくは次の書籍に纏められている

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岐阜県主催の講演後に岐阜県関市にある関城にて記念撮影。
関城主長井道利(16代前のご先祖)の名前が記載されているところを指さす筆者。
*
☆ご先祖探究を始めて、すぐに小生に岐阜県庁より講演依頼がきた。岐阜県関市における基調講演時に、当方の母、祖母、曾祖母に繫がる女系譜だが、15代前のご先祖長井隼人正道利 (その息子で3男・井上利定(時利)ー利義(利中)ー利長ー利實ー利友ー利壽ー利喬ー利貞(多聞)ー利充(熊蔵)ー利和(収蔵)ー井上利明(高祖父・勔次郎)ー曾祖母(お嫁に来たひいばあさん)ー祖母―母ー小生)の居城だった関城に立ち寄る。
あわせて長井道利の義理の息子遠藤慶隆の郡上八幡城にも講演の主催者さんのご案内で立ち寄る。再現ではあるが木造建築の秀麗な城である。さすが清流と森林の国である。
*

☆彡

2020年1月26日 (日)

佐野訪問シリーズ2:司馬遼太郎の作家生活への原点に立つ

今回、平安時代の武将俵藤太の足跡ともう一つ司馬遼太郎の作家生活への原点となる栃木県佐野市の植野小学校(植野国民学校)を訪ねてきた。

残念なことだが、最近の学校は地域内でクローズにしているのが一般的だが、今回校門前で写真を撮っていたら、敷地内にいた江川卓先生(仮名)が校内へ招き入れてくれ、地元にまつわる司馬先生の伝説話をしてくれた。

司馬遼太郎はとうとうこの地に戻れず世を去った。司馬文学はスズカケの木の伐採で幕を閉じた、とみた。司馬遼太郎は、戦後佐野の地に足を踏み入れることを極端に嫌った。それは……。

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校庭内にある戦前ここにあった植野国民学校の石碑

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現在の佐野市植野小学校の校庭。かなり広い校庭だ。終戦の夏の日に司馬遼太郎(本名:福田定一青年22歳は戦車部隊の将校で本土決戦に備え、ここに駐屯していた)が見た、かつての”スズカケの木”は伐採されて今はない

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初代の木種から育成した2代目のスズカケの木が校門脇で大切に育てられていた

☆彡

過去の司馬遼太郎を話題にした当方ブログ(この中からスズカケの古木が、動画で見ることができる)

http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-68c8.html

http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_2aa0.html

http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-a686.html

http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-1e45.html

☆彡 ぜひご笑覧あれ

 

佐野訪問シリーズ1:下野国佐野市で俵藤太の足跡を訪ねる



細内所長は、俵藤太(ムカデ退治の藤原秀郷)で有名な近江(滋賀県も講演活動で結構歩いている)の瀬田商工会で講演をしましたが(もう一つ大津市瀬田のブログ紹介

今度は、彼の本拠地栃木県佐野市の佐野市田沼でその足跡を巡ってきました




画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然
藤原秀郷公の古墳、子孫に武人が多く、忠臣蔵の大石内蔵助もその一人だ
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藤原秀郷を祭る唐沢山神社本殿
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古墳の頂上より唐沢山城を望む

2019年8月13日 (火)

江戸旗本の暮らし、いつの時代も宮使いはつらいもの

江戸の直参旗本は将軍に拝謁できるばかりでなく、おおむね500石以上の旗本は、地頭として知行地の農民を支配し、物納である米を徴収していた。

旗本井上家の記録によれば、知行地500石で、江戸初期の石高が江戸中期を過ぎるころには、新田開発や生産性も上がり、表高の約1.4倍の米が取れたらしい。すなわち500石ならばおおむね700石が取れるのである。支配する領地には、おおむね40軒(200人前後)の農民がおり、1軒平均17石の収穫高で40軒の農家だから、700石前後の収穫があったことになる。

*画像をクリックすると拡大します

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小生から数えて17代前のご先祖の一人(寛政譜によれば井上定利の母は稲葉宗張の娘とある)、美濃国の戦国武将稲葉宗張画像(京都大徳寺高桐院の重文より)

*

しかし、これを農家6:旗本4で分配するので、実質280~300石が旗本の実入りで、1石が150キロの米とすると、現代の貨幣価値で1石が7万~10万円相当になり、旗本の実入りである4掛けで計算すると、家禄500石の旗本は、現代に置き換えると年収2000万~2800万円に相当する。

幕府の規定により500石の家格は、「いざ戦の時は、当主は馬に乗り+徒歩の家臣10人を引き連れて参陣せよ」とあり、先程の2000万~2800万円から家臣に給料を払わなくてはならず、平時はその半分に抑えて召し抱えていたらしい。中間、奴などは今でいうアルバイトを採用(当時アルバイト紹介業である口入れ屋が繁盛)した。それでも戦の備えとして、常時武具の手入れをかかさず、屋敷内に馬を飼うなど、当主は家制度の苦しい経営を迫られた。平和の世が長く続くと、武具を質に入れ、旗本株や御家人(将軍に拝謁できないもの)株を売却するなど、不届きな武士が出てきた。

そうした苦しい生活をおくるのは家禄のみの小さい石高の旗本で、御番入り(仕事を得れば)をすれば、役高がこれに足され、暮らし向きは大いに向上した。やがて年配になり、番方の組頭や目付、奉行等に就くと役高としてさらに600石~3千石が足された。小普請組(無職)で一生家禄だけの暮らし(勝海舟の父小吉がそうであった)と仕事を得て御番入りの旗本では雲泥の差が生じた。いつの時代も宮使いは厳しいものだ。

2019年5月13日 (月)

江戸の切れ者、筆頭大目付・井上美濃守利恭

美濃国の戦国武将、井上3兄弟の3男井上定利(利定)の長男に井上利義(利仲)がいるが、大阪の役後二条城で徳川家康に御目見えし、許され、井上家初代の直参旗本となる。その系譜が徳川綱吉の時、綱吉の嫡子に仕える形で井上分家が誕生したが、若君さま早世により一時小普請入りするが奉公に励み、本家分家とも幕末まで御家を全うする。

両家とも家禄500石で、極官としては布衣の組頭、留守居、若年寄支配の奉行などがほとんどだが、中には従5位下美濃守(諸大夫)を叙付された当主がいた。彼の名は、井上美濃守利恭(1749年―1820年)といい、1798年に49歳で作事奉行(役高2000石)からの栄転で大目付(役高3000石)を仰せつかり、62歳までの13年間にわたりお役目を果たした人物である。

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彼の大役の一つ、徳川家斉の時代(1810年)に朝鮮通信使の幕府供応役を務めたことである。正史が小笠原小倉藩主、副使が脇坂竜野藩主で、いずれも大名であるが、幕府の実務的責任者・御用掛を当時の筆頭大目付兼帯道中奉行の井上美濃守利恭が務めたのである。

歴史的には江戸時代最後の朝鮮通信使といわれ、朝鮮通信使は本来江戸の将軍に朝鮮国王の国書を携えて謁見するが、その江戸まで来ずに長崎の対馬で供応したことが記されている。これは双方合意の上で成立したもので、財政的にも相互に負担を減らす効果があったという(本来江戸までの道中供応には100万両かかるが、朝鮮国の日本側窓口の対馬で行うことで、幕府は38万両で済ませたという、しかも江戸から3000人を派遣することで簡易に済ませている)。井上美濃守利恭は、儀礼にかかわる一切の仕事を完了させて、翌1811年に江戸に戻ったことが幕府の公的記録に残っている。彼にとって心身共にたいへんな重責を果たしたことになる。慶賀の朝鮮通信使の供応には、100万両はかかるといわれている経費を、その半分以下に抑えた手腕は、彼の京都町奉行、作事奉行時代に培った経済コストを考えた手法といっても良いだろう。まさに切れ者美濃守である。

これを知ったのも2017年岡山での仕事の帰りに、岡山在住の旧知の友・中山氏と岡山県牛窓町にある朝鮮通信使資料館を訪ねたことに始まる。

井上美濃守利恭の職歴が、今風にいえば典型的なキャリア官僚コースであるので、当ブログにてご紹介しよう。

彼は、18歳で将軍家治にお目見えし、井上本家の家督を継ぎ、小普請入りを果たしている。そして20歳で小姓組入りし、20歳代は進物御番を務めている。34歳で将軍外出時の警護を担当する小十人頭(現場の警護責任者で役高1000石)となり、布衣(6位相当)を許されている。

37歳で旗本5000家を取り締まる目付に就き、39歳(1788年)で遠国奉行の一つ、京都町奉行(役高2000石)に就任している。当時幕府は体面を保つため、江戸から京都に向かう遠国の奉行職には、赴任手当として300両を下している。京都の町の半分が燃えた大火直後に、京都の町の治安維持と町の再生に江戸幕府官僚の若手のエース級を江戸から送り込んだことになる。ここまでは順調なエリートコースであり、家格500石ながら役高は4倍の2000石、そして官位は大名クラスの従5位下美濃守を賜っている。

彼は42歳になると江戸に戻り、今度は作事奉行を務めるがここで辣腕を振るう。江戸城の修復ばかりでなく、久能山東照宮や日光東照宮、世良田東照宮などの修繕責任者として現地に赴き、腕を振るうことになる。記録を見ると将軍から各地の修繕完了の度に大判の金子(黄金)を5枚、10枚と下賜されている。そして作事奉行としては7年間をつつがなく勤め、49歳でとうとう直参旗本の最高役職の一つ、大目付(役高3000石)に昇りつめるのである。その後、彼は大目付に13年間も在職し、在任中に筆頭大目付となり、道中奉行も兼帯し、美濃守といえば切れ者大目付の井上美濃守といわれるまでになった。

時は将軍家斉の寛政改革の世、寛政重修家譜によれば、作事奉行時代は、修繕を美しく仕上げ、経費を切り詰め、いわばコストカッターとしての手腕を発揮し、幕閣に井上美濃守ありといわれた。

62歳で大目付のまま朝鮮通信使(第12回)の幕臣筆頭供応役(あの遠山の金さんの父親も配下の目付として同行、その後長崎奉行を務めている)を長崎対馬でやり終え帰府すると、翌年の63歳には諸家系譜書継御用を相務め、徳川家斉の時代(50年間)を支えた有能な幕臣の一人となるのである。

井上美濃守71歳のおり、幕府に老衰願いが受理され、隠居を仰せつかり寄合旗本へ、その後幕府より養老料として切米300俵を賜り、72歳で鬼籍入りするまで、恙なくお役目を果たしている。

歴代の井上家の過去帳を見ると、一番長い戒名が付けられている。多忙のなかで後妻を迎え、江戸から長崎の対馬まで供応・御用掛として往復道中2年の歳月を費やし、切れもの井上美濃守利恭の人生は休むことのない、まさに走り続けた激務の一生であった。

 

井上3兄弟系譜の女系関係から頑固者を見出す

明治生まれの亡くなった母方の祖母は、最近まで親戚一同から彼女が長女であると思われていたが、私が祖母、つまりばあちゃんの実家の除籍謄本を取り寄せてから本当のことが分かった。

彼女は、実は四女でありながら、父親が若いとき(明治期に)本籍を移転したため、その後は長女として記載されたのである(昔はよくあること)。その除籍簿を見ると、ばあちゃん家の姉たち三人は、三歳未満で夭折している。家業の造り酒屋もカビが発生し、郡内随一の造り酒屋も大正末期に廃業を余儀なくされた。そうした不運続きの中で、彼女の父(私の曽祖父にあたる)は本籍地を替えたのであろう。

ばあちゃんの母親(曾祖母)は、明治のはじめに18歳で江戸旗本家から造り酒屋に嫁入りし、6人の子を生し、ばあちゃんが3歳の時、幼子たちを残してうら若き身の33歳で天国へと旅立っていった。その曾祖母から辿る先祖の女系史がとんでもないことになるのは最近のこと。歴史好きの私を日本の戦国時代へ駆り立てたのである。

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大阪冬の陣、豊臣秀頼方の鉄砲隊長、井上頼次または定次(長井道利の次男で秀吉・秀頼の黄母衣衆の一人、井上3兄弟の真ん中)は、秀頼から任された2千人の鉄砲隊を率いながらも、徳川方上杉勢の猛攻撃を受け、鴫野の戦いであえなく討ち死した。

祖母の母親(曾祖母)から遡る井上姓のご先祖は、この井上3兄弟の3番目から発祥し、鴫野で戦死した井上頼次(定次)の弟にあたる3男井上定利から始まる。井上定利も翌年の大坂夏の陣にて300名の兵を率いた道明寺の戦いで、薄田兼相らと共に討死している、井上定利の母親は、稲葉宗張の娘で、稲葉一鉄に繋がる稲葉一族であり、頑固一徹で有名な稲葉一鉄の息子(臼杵藩の藩祖)に斎藤道三の娘(長井道利の妹)が嫁ぎ、そんな関係から江戸の幕末まで大名稲葉家と旗本井上家は親戚付き合いをしている。

頑固一徹(一鉄)といえば、江戸末期に井上定利の末裔、旗本井上分家の当主井上収蔵には、賤ケ岳七本槍の一人・平野権平の末裔の旗本平野家から娘が嫁いでいる。また井上家の系図を見ると、江戸初期の旗本井上家2代目の井上利景の妻には、あの大久保彦左衛門の娘が嫁いできている。こうして稲葉一鉄、平野権平、大久保彦左衛門と女系繋がりながら、頑固もの3人衆のDNAが井上家には脈々と受け継がれていることになる。その子孫はどんな頑固者になることやら心配である。肥後のもっこす、土佐のいごっそう、津軽のじょぱりにも負けない頑固者になるかもしれない。武家というプライドがあるだけに誰にも負けない真の頑固者かもしれない。

 

 

 

2019年4月 9日 (火)

美濃国の黄母衣衆、井上3兄弟

美濃の国の戦国武将に長井斎藤(のちに井上に改姓)の3兄弟と呼ばれる屈強の若者たちがいた。

彼らの父親は、長井隼人正道利といい、国盗り物語の主人公斎藤道三の弟とも、または斎藤家の家老長井長弘の子とも、そして斎藤道三の庶子ともいわれ、後・斎藤三代(秀龍道三、義龍、龍興)に仕える家老だった。しかし後斎藤一門の中で内訌が起き、国主を引退した斎藤道三とその長男・義龍に分かれ、とうとう道三は義龍に打ち取られてしまった。

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隣国の尾張の国もそれに呼応するように、尾張上四郡の守護代織田伊勢守家・織田信安と尾張下四郡の織田大和守家は国内で対立していた。大和守家を支える三奉行の一人に織田信秀でおり、その息子に織田信長がいた。この美濃と尾張のたすき掛けした同盟関係の結果、斎藤道三プラス織田信秀(道三の娘婿信長)の同盟軍と斎藤義龍(家老・長井道利)プラス織田伊勢守家織田信安の同盟軍が濃尾両国内で睨み合っていた。やがて織田信秀は病にて死去し、斎藤道三は息子の義龍に長良川の戦いで討たれることになる。

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そうして時代は、斎藤義龍(その家老長井道利)と織田信長の対立の時代を迎える。やがて信長は義龍の病死に助けられる格好だが、濃尾両国の覇権を得る。それでも信長は、義龍の子・斎藤龍興とその家老長井道利(のちに信長と反目した14代将軍足利義昭の家臣となり、将軍命令で和田の援軍として摂津国で討死)を美濃国から追放するまで7年も費やしている。それほど美濃の国は、信長にとって強国で手ごわい相手だったのである。

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長井道利の子3人は、主家の斎藤氏が滅ぶと長井姓を変えて、長井の井の字を上にあげて井上と称した、と現代の井上家(利長流)のご当主から直接伺ったのは、今から6年前のことである。その井上さんは、私の母と従兄弟関係にある。道利の子・3人はそれにより井上3兄弟となり、織田信長の軍門に下るのである。

長男の井上道勝と次男の井上頼次は、織田信長の配下を経て、その後豊臣秀吉、秀頼の親衛隊・侍大将格の黄母衣衆に加わるのであるが、井上道勝は、初め織田信長に仕え、その後豊臣の黄母衣衆、そして最後は池田輝政の客分として仕えた。道勝の長子・長井新太郎は、織田信忠に仕えたが本能寺の変に会い、二条御所で織田信忠とともに討死した(本能寺の変、二条御所では信忠方の親衛隊として、長井新太郎、道三末子の斎藤新五郎、赤座永兼が揃って討死した)。よって道勝家は、娘婿の子・纐纈三十郎が長井の名跡を次いで池田藩士となって仕えたが、諸所の問題により微禄となったためか、その後。数代を経て池田藩を脱藩し、行方不明となったと記されている(2017年7月に仕事で訪問した岡山県で、帰りに立ち寄った岡山大学付属図書館にて、その所蔵の池田家文庫「池田家除け帳」を紹介され、そこにそう記してあった。その際、偶然にもその場にいらした倉地岡山大学名誉教授から直接、その解説をしていただいた。)

次男井上頼次も、豊臣家の黄母衣衆の一人、その後は大坂の陣で豊臣方の鉄砲隊長として兵2千人を率いるが、徳川方の上杉軍の猛攻に会い、冬の陣にて討死する。頼次の子孫の存在は不明である。

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三男の井上小左衛門こと井上定利(母は稲葉宗張の娘、臨済宗の井上家菩提寺の過去帳にもそう記載あり、稲葉一鉄の一族か?)は、織田信忠、秀信(信長の孫・三法師)の傘下に納まるが、その後豊臣政権下では摂津の国の代官、関ヶ原の戦いでは織田秀信方についたため、戦後徳川から領地を召し上げられ、浪人となる。大坂の陣では秀頼方の侍大将格で大阪城に入城。その際、定利の子、利中は人質として父とともに大坂城に入る。井上小左衛門は、夏の陣の道明寺の戦いで兵300人を率いるが薄田兼相とともに討死。子の利中は落ち延びて石清水八幡宮(岩本坊)に潜伏中に見つかり、その後板倉勝重や織田有楽、秀忠の妻らの哀願により、二条城で徳川家康に面会し、その罪を許され、2代将軍徳川秀忠の直参旗本として復活し、幕臣井上家2家は江戸幕末まで続き、大目付、道中奉行、作事奉行、目付、駿府武具奉行、西の丸留守居、二の丸留守居、お納戸役などを輩出し、その子孫たちは現代まで続くのである。

 井上定利の妻は、織田信長・信忠配下の赤座永兼(京都二条御所で織田信忠とともに討死)の娘、赤座永兼の妻は尾張上4郡守護代・織田伊勢守家の織田信安の娘で、その信安の妻は信長の祖父の娘(つまり信長の叔母)で斎藤家と織田家は複雑に婚姻関係を重ね、同盟関係と内訌を繰り返していた。そうして井上定利系譜の旗本井上家(本家、分家あり)には、斎藤長井家ばかりでなく、女系を通じて織田本流の血脈、赤座の血筋が入っていることになる。井上定利の妻(旗本初代利義の母)は、赤座永兼の娘だが、京都伏見で太閤に仕えていた時、伏見の大地震が起き、その時の立ち居振る舞いを太閤から称賛され、長く子孫にわたり菊桐の家紋(十六葉菊と五七桐)を授けられた。

*

なお井上3兄弟の末弟として、徳川家光の時代に起きた紫衣事件で有名な沢庵和尚と一緒に流された京都大徳寺(臨済宗大徳寺派)の住持玉室宗伯(芳春院の開祖)がいるが、歴史はつながるもので、のちに徳川家斉11代将軍の旗本井上本家の当主井上美濃守利恭が京都町奉行を務めているとき、彼の幼子が夭折し、その亡骸を大徳寺芳春院に埋葬している(井上家の過去帳にてその記載を発見する)。芳春院の開祖は、長井道利の子・玉室宗伯(道利の妻・稲葉宗張の娘が育てる)であり、そうしたことからも深いつながりを感じるものである。

細内所長の歴史スペクタル

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*画像をクリックすると拡大します

 

2018年1月12日 (金)

将軍秀忠妻お江と親戚関係にあった井上時利

歴史好きな細内所長のよもやま話

旗本井上家 http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-da30.html の続編

☆彡閑話休題

織田信長の孫、三法師こと織田秀信(美濃国の稲葉山城を拠点とする)は、1600年関ヶ原で豊臣方の西軍についた。

そのため戦後、多くの美濃国人衆は織田秀信についたため徳川家康の裁定で領地を失い、浪人となったものは少なくなかった

☆過去帳の一部

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歴史書では長井道利が一般的だが、旗本井上家所蔵の関係資料では、忌み名の”利”は最初にくることが多く、長井隼人正利道となっている。齊藤山城守のみ正利で”利”が下についている。

*

斉藤道三の庶子・長井隼人正道利(美濃齊藤家の3代目齊藤龍興の家老として最後まで織田信長に抵抗する)の息子、井上3兄弟も主家齊藤家が信長に滅ぼされてから、苗字を長井から井の字を上にあげて井上に改名し、その後織田信長、豊臣秀吉、秀頼に仕えた。3兄弟の長男井上道勝は秀吉の黄母衣衆の一人といわれた。次男の井上頼次は大坂冬の陣で豊臣方の鉄砲隊長として討ち死したが、今回は井上3兄弟の三男・井上時利(小左衛門尉定利)に焦点を当てたい。

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京都大山崎の油祖離宮八幡宮(岩清水八幡宮元宮)にて、第48代津田宮司さんと記念写真を撮る(戦国期に菜種油の油座があったお宮である)

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井上時利の母は文献では不明だが、旗本井上家のお寺過去帳には、長井道利の妻として稲葉宗張の娘が記載されている。たぶん文献に出てくる道利の妻、すなわち遠藤氏の元妻を後妻に迎えたが、織田信長により美濃追放前後に離縁し、彼女の子息のいる遠藤氏のもと・郡上八幡?へ帰したものと思われる。よって三男井上時利(1566年生まれ?)の母は稲葉氏の可能性がある。

⇒その推測は以前、当ブログ http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-79d3.html で取り上げている

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時利は関ヶ原の戦いで西軍につき、先ほどの理由で1600年以降は浪人となるが、1614年の大坂の陣で豊臣秀頼から召され、侍大将の一人として、道明寺の戦いで薄田兼相らと一緒に討死する。

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井上時利の嫡男井上利中(母は赤座七郎右衛門の娘(赤座七郎右衛門の妻は織田信安の娘)、つまり彼は長井齊藤氏、赤座氏、織田氏、稲葉氏?の血筋を受け継いでいたことになる)は、当時12歳で父の人質として大坂城にいたが、落城後、京都の石清水八幡宮に落ちのびていた(赤座七郎右衛門は齊藤道三の家来、織田信安は齊藤義龍、龍興の家来という)という。

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この少年井上利中が2代将軍徳川秀忠の妻・お江や織田有楽斎、板倉勝重京都所司代らの助命嘆願によって、大坂夏の陣後すぐに二条城で徳川家康に面会し、罪を許され、徳川秀忠の直参旗本となるのである。

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その理由として考えられるのは、お江は浅井氏の出(浅井長政の娘、淀殿の妹、母親お市は織田家の血筋)、後・齋藤の3代目齊藤龍興の正室は浅井氏の出で、その龍興の家老が長井道利(利中の祖父)である。寛政譜によれば、道利の妻は稲葉宗張の娘であり、井上時利の妻にはすでに述べたように織田家の血も入っている。すなわちお江と井上時利は織田家を通じて従兄弟関係にあり、利中はお江からすれば従兄弟の子であり、織田有楽斎も同じ関係になる。助けないわけにはいかないのである。

だからこそ、井上時利の嫡男・利中を助けたのである。関ヶ原、大坂の陣と立て続けに負けても、その罪を家康から許され、徳川家の親衛隊・旗本井上家として、本家、分家(徳川綱吉の嫡男徳松君の小姓として、将軍家から別家設立の許可を得る)ともに、それぞれ500石で明治維新、現代まで生き残るのである。

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