歴史

2021年9月14日 (火)

下野国の天保飢饉と二宮尊徳の出現

天保の飢饉(1833-1839)は、下野、常陸国にとって、享保・吉宗の時代(1716-1736)の人口から30~40%も人口が急減した。下野、常陸国とも、俗にいう夜逃げ逃散、潰れ百姓が多発した地域だ。人口の4割減は相当深刻だ。明治期までその人口は回復しなかったという。

ここに時代の要請として、下野国における農政家(今風に言えば農村の経営コンサルタント)二宮金次郎の出現が待たれるのである。小田原藩大久保家の分家である旗本領が下野国の芳賀郡桜町にあり、知行地の石高が1/3まで激減しているところに派遣され、再興していくのである。のちに幕府からも農村復興を頼まれ、日光山領の下野国88か村の農村復興にも関与する二宮金次郎である。筆者は55年前の小学校遠足時に日光市今市にある二宮金次郎のお墓を訪ねたが、土に盛られた饅頭墓で周辺をきれいに清掃されていたことを今でも覚えている。当時栃木県内各地の小学校の校庭には、二宮金次郎さんの銅像が立ち、薪を背負った勤勉家の二宮尊徳さんが地元のみんなから尊敬されていた。

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筆者の母校佐野市立田沼小学校の二宮尊徳さん

下野国の中央部、河内郡でも大飢饉で農村は荒廃し、河内郡に知行地を抱えた多くの幕臣旗本が領民と共に苦心した。知行地の石高不足を、残された本百姓や五人組隣保にあてがわれ、逃散、潰れ百姓の残された耕作地を彼らが代替え耕作したが、冷夏と逃散による人手不足で満足な石高を確保できなかった。

そして、世は貨幣経済に突入し、旗本は江戸の金貸しから知行地の年貢を担保に金策に走る始末。知行地の庄屋が金貸しから年貢分の金子を調達し、殿様が裏書をする(実は江戸の殿様(旗本)が生活苦から画策)。江戸幕府の弱体化は、黒船来航だけでなく、こうした天保の大飢饉から始まったものである。しかも相給の領地では村民のまとまりはない。互いに監視する地域社会が生まれる。ここに今の北関東各県の県民性の源があると筆者は考えた

さて本百姓は、平均で40石の米を生産していたが、元禄期の地方直し(じかたなおし)の表高500石の旗本なら、新田開発で天保当時は10%増しの550石はあったようだ。表高500石の旗本には約14軒の本百姓(一家で5~7人、40石×14軒=560石)があてがわれた。当時収穫の配分は、旗本3.5~4で、百姓6.5~6であった。もちろん旗本には幕府の規定で500石ならば10人の家来が必要であったし、本百姓には、水のみ百姓(小作人)が与力として米や農産物の生産に従事していた。年貢の他に日光街道・宿場の助郷役(人馬の用意)もあり、百姓の不満は飢饉の人口減も手伝って限界に近づいていたのである。そうした階層社会の圧政がわが国の農村社会を支配していた。

県史・町史にこんな記録が残っている。畳のある部屋を有する農家は、河内郡のある村で全体の65%ほど、おおむね本百姓の家がこれに該当する。残りの35%ほどが小作人の家である。この小作人の多くの人たちが、生活苦から潰れ百姓として逃散して行ったようだ。いつの時代も弱者が犠牲となる。人の世はむなしい。人口100万人の大消費地・江戸へと向かうのだった。

ちなみに下野国河内郡(栃木県中央部、現在の宇都宮市、上三川町、下野市付近)は、豊臣秀吉の時代に名門武家の宇都宮氏(20数万石~30万石)が改易となっており、宇都宮氏の多くの家臣、一族は帰農し、そのまま本百姓となって土着している。その地位は江戸期も農村の支配層として定着していたことを忘れてはいけない。

 

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☆上図の書籍はクリックするとAmazonのキンドル版(電子書籍)にリンクし、閲覧することができる

2021年1月27日 (水)

那須与一と将棋の藤井さんにみる、天才は早熟である、ということ

少しむかしのこと、経産省から頼まれて高松市での講演の帰り、屋島に立ち寄り、平家物語で有名な扇の的を獲る那須与一(鎌倉幕府の御家人、本貫地は下野国那須)について思わぬ発見をしたものです。

それは、当時彼の年齢が数えで16歳、将棋の天才藤井さんと同じ歳に偉業を成し遂げたからです。共通項は、「天才は早熟」である、ということです。

2番目の驚きは、屋島の碑から分かったことですが、与一と扇の的までの距離がたった70メートルだったことで、意外に短い距離であったことには正直びっくりしました。

的を射ることに成功し、源平の戦のショータイムを盛り上げた彼は、頼朝から荘園(備中国荏原荘)をもらい、その後11男ながら兄弟を追い越し、那須家の当主になりました。

その前後ですが、井原市からの講演依頼で岡山県井原市を訪問した時、駅前に”那須与一のふるさと”という大きなアーチを見て、驚きでした。彼は、私のふるさと下野国の武人・偉人ではないか、と思ったからです。なぜ岡山で那須与一なのか?と大きな驚きでした。与一の庶流が、地頭として治めたことが帰宅後判明しましたが、栃木県とはずいぶん力の入れようが違うのか、と思った次第です。

2021年1月25日 (月)

大名の倒産はない、それが封建制度だ

浅田次郎氏の「大名倒産」を読み終えたが、お上に倒産はない。

有史以来、わが国にあるのは徳政令(チャラ、ご破算)があるだけ。

ことわざ「泣く子と地頭には勝てぬ」は、その証左だ。

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先人を敬う、人はそれを先生という    

2020年6月 7日 (日)

あなたにもできる小さな社会貢献、地域文化の創造。調査し研究して、それを纏め書籍にして公立図書館や学校に寄贈すること

この女系史伝の制作は、講演、セミナーなど岐阜県内における仕事の合間に調査を踏まえ、着手から7年を費やして完成させたものである。

こうしてできた細内助之進著『美濃斎藤氏に繋がる藤姓井上家の女系史伝』コミュニティビジネス総合研究所出版部 2020年(その後『我が家の女系史伝』と改題し、一部加筆して、巻末に家系図を付け、4版として発行)は、次の国公立図書館や公立学校などへ寄贈されました。

書籍は間もなく各図書館で登録され、お手元で確認することができるでしょう。詳しくは各図書館へ問い合わせをしてみましょう。

コミュニティビジネス総合研究所出版部 58頁 A5判 定価800円(税別)

<寄贈先の公共図書館における所蔵状況>

  1. 国立国会図書館(登録済)
  2. 栃木県立図書館(登録済)
  3. 国立信州大学図書館(登録済)
  4. 国立岐阜大学図書館(登録済)
  5. 岐阜県図書館(登録済)
  6. 岡山県立図書館(登録済)
  7. 日光市立図書館(登録済)
  8. 下野市立図書館(登録済)
  9. 稲城市立図書館(登録済)
  10. 岐阜市立中央図書館(登録済)
  11. 県立長野図書館(登録済)
  12. 京都府立図書館(登録済)
  13. 宇都宮市立中央図書館(登録済)
  14. 壬生町立図書館(登録済)
  15. 山武市立図書館(登録済)
  16. 栃木市立図書館(登録済)
  17. 上田市立図書館(登録済)
  18. 上三川町立図書館(登録済)
  19. 上三川町立明治小学校(母方4代前の高祖父・井上利明が明治6年に自宅で始めた日省学舎がいまの明治小の始まり)
  20. 渋谷区立図書館(登録済)
  21. 世田谷区立図書館(登録済:2020.12.25)
  22. CINIIにおける登録状況

☆2020年12月25日現在

 

追記

現在当書は、新たに家系図を加えて『我が家の女系史伝』と改題し、著者名も本名に戻し、4版まで版を重ねている

定価は800円+税で、初版から4版までプライスの変更はない。

※寄贈にあたり、新型コロナウイルスの影響で、各図書館の登録審査に少し時間がかかっています。

社会貢献型の普及を目指して制作された当社出版部発行の書籍は、こちらから

※紙の本と合わせて、アマゾンのキンドル版の電子書籍は、こちらから

☆彡

2020年4月 3日 (金)

書籍『美濃斎藤氏に繋がる藤姓井上家の女系史伝』細内助之進著が4月1日に発行された


コミュニティビジネス総合研究所出版部がおくる第3弾の書籍『美濃斎藤氏に繋がる藤姓井上家の女系史伝』細内助之進著が4月1日に発行された

ここ4年くらい仕事(地域おこし)で訪れた岐阜県岡山県での仕事終了後の単独取材をもとに新たに書き起こす

大河ドラマ『麒麟がくる』に登場する斎藤道三や織田信長などの末裔を訪ね、新事実をザクザクと掘り起こす

細内助之進(細内所長のペンネーム)のデビュー作です。

本文では、寛政重修家譜編集時に筆頭大目付兼帯道中奉行を務めた井上美濃守利恭(井上本家の切れ者美濃守)を取り上げています。寛政重修家譜完成以降、旗本井上家の家祖・長井道利は従来の斎藤道三の弟ではなく、その庶子?になりました。

井上美濃守は、寛政の改革の中心人物の一人で御所も炎上した京都大火を復興した当時の京都町奉行や全国(久能山、日光、世良田)の東照宮を修復した作事奉行、長崎の対馬で行われた最後の朝鮮通信使供応御用掛として、11代将軍徳川家斉を支える幕閣中心人物の一人です。

コミュニティビジネス総合研究所出版部 58頁 A5判 定価800円(税別)

☆彡

コミュニティ・ビジネスへのご賛同による当書籍の入手は、こちらから

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2020年2月11日 (火)

「鶴瓶の家族に乾杯」岐阜市編の岡本太郎右衛門家の460年続く稼業の秘訣とは?

2020年2月10日にNHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯」の岐阜市編を見ていたが、その中で岐阜市の名門岡本太郎右衛門家のことに興味がわいた。そこで400年を超えるその家業の繁栄状況を考察してみた。

初代の岡本太郎右衛門さんは、岐阜(当時は井ノ口)において鋳物業を創業したのが西暦1560年だそうだから、当時の美濃国の治世は斎藤三代(道三、義龍、龍興)支配の時代である。そして現在の当主岡本太郎右衛門さん(90歳)は、ちょうどそこから15代目にあたるそうだ。

私のご先祖探しで分かったことであるが、斎藤三代に仕えた重臣の一人長井隼人正道利が当方のご先祖の一人(直系でなく、女系女系のつながりであり、明治期に旗本井上家からひいばあさんが嫁にきて繋がっただけで大したことではない)であることが判明したが、小生からさかのぼると長井隼人正道利はちょうど16代前にあたる。亡き母が存命していればちょうど90歳であるから、岡本太郎右衛門家の代数15代と一致することになる。


*家伝・旗本井上家の家系図(元禄年間に作成)を現在のご当主の許可を得て筆者が写す

そして現在の岡本家の家業(社業)を調べてみたら、460年も生き残り続けるには、家業をその時々のニーズに合わせ、着実に変化させ、そして進化させることが経営の秘訣であるということを掴んだ。それが当主の役目である。

日本では小さな業(家業)でも、時代の先行き、潮目の変化、経営を間違えなければ、こうして生き残りが可能なのである。

岡本+太郎+忠右衛門の忠右衛門尉は、当時武士のはやり名の一つで、長井道利の息子に井上忠右衛門道勝(書物により忠左衛門と記載するものもある)が実在するが、織田信長によって斎藤家が滅ぶと、彼は長井の井の字を上にあげて、井上と名字を変えた。長井道利の息子、井上三兄弟はそうして宿敵であった織田信長の旗下に下ったのである。勝者に遠慮して敗者が元の名字を変えることはよくあることであった。

☆彡

斎藤家重臣の戦国武将長井道利の補足説明(詳しくは次の書籍に纏められている

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岐阜県主催の講演後に岐阜県関市にある関城にて記念撮影。
関城主長井道利(16代前のご先祖)の名前が記載されているところを指さす筆者。
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☆ご先祖探究を始めて、すぐに小生に岐阜県庁より講演依頼がきた。岐阜県関市における基調講演時に、当方の母、祖母、曾祖母に繫がる女系譜だが、15代前のご先祖長井隼人正道利 (その息子で3男・井上利定(時利)ー利義(利中)ー利長ー利實ー利友ー利壽ー利喬ー利貞(多聞)ー利充(熊蔵)ー利和(収蔵)ー井上利明(高祖父・勔次郎)ー曾祖母(お嫁に来たひいばあさん)ー祖母―母ー小生)の居城だった関城に立ち寄る。
あわせて長井道利の義理の息子遠藤慶隆の郡上八幡城にも講演の主催者さんのご案内で立ち寄る。再現ではあるが木造建築の秀麗な城である。さすが清流と森林の国である。
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2020年1月26日 (日)

佐野訪問シリーズ2:司馬遼太郎の作家生活への原点に立つ

今回、平安時代の武将俵藤太の足跡ともう一つ司馬遼太郎の作家生活への原点となる栃木県佐野市の植野小学校(植野国民学校)を訪ねてきた。

残念なことだが、最近の学校は地域内でクローズにしているのが一般的だが、今回校門前で写真を撮っていたら、敷地内にいた江川卓先生(仮名)が校内へ招き入れてくれ、地元にまつわる司馬先生の伝説話をしてくれた。

司馬遼太郎はとうとうこの地に戻れず世を去った。司馬文学はスズカケの木の伐採で幕を閉じた、とみた。司馬遼太郎は、戦後佐野の地に足を踏み入れることを極端に嫌った。それは……。

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校庭内にある戦前ここにあった植野国民学校の石碑

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現在の佐野市植野小学校の校庭。かなり広い校庭だ。終戦の夏の日に司馬遼太郎(本名:福田定一青年22歳は戦車部隊の将校で本土決戦に備え、ここに駐屯していた)が見た、かつての”スズカケの木”は伐採されて今はない

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初代の木種から育成した2代目のスズカケの木が校門脇で大切に育てられていた

☆彡

過去の司馬遼太郎を話題にした当方ブログ(この中からスズカケの古木が、動画で見ることができる)

http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-68c8.html

http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_2aa0.html

http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-a686.html

 

☆彡 ぜひご笑覧あれ

 

佐野訪問シリーズ1:下野国佐野市で俵藤太の足跡を訪ねる

細内所長は、俵藤太(ムカデ退治で有名な藤原秀郷のこと)で有名な近江大津(滋賀県も講演活動で結構歩いている)の瀬田商工会で講演をしました(もう一つの講演会は大津市瀬田のブログを紹介

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今度、彼の本拠地栃木県佐野市の佐野市田沼でその足跡を巡ってきました

かつて細内所長も小学3年まで田沼町に住んでいました

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藤原秀郷の子孫には、小山氏、佐野氏など武人が多く、忠臣蔵の大石内蔵助もその一人だ
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藤原秀郷を祭る佐野市の唐沢山神社本殿
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藤原秀郷の古墳頂上より彼の築城した唐沢山城を望む
☆彡

2019年8月13日 (火)

江戸旗本の暮らし、いつの時代も宮使いはつらいもの

江戸の直参旗本は将軍に拝謁できるばかりでなく、おおむね500石以上の旗本は、地頭として知行地の農民を支配し、物納である米を徴収していた。

旗本井上家の記録によれば、知行地500石で、江戸初期の石高が江戸中期を過ぎるころには、新田開発や生産性も上がり、表高の約1.4倍の米が取れたらしい。すなわち500石ならばおおむね700石が取れるのである。支配する領地には、おおむね40軒(200人前後)の農民がおり、1軒平均17石の収穫高で40軒の農家だから、700石前後の収穫があったことになる。

*画像をクリックすると拡大します

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小生から数えて17代前のご先祖の一人(寛政譜によれば井上定利の母は稲葉宗張の娘とある)、美濃国の戦国武将稲葉宗張画像(京都大徳寺高桐院の重文より)

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しかし、これを農家6:旗本4で分配するので、実質280~300石が旗本の実入りで、1石が150キロの米とすると、現代の貨幣価値で1石が7万~10万円相当になり、旗本の実入りである4掛けで計算すると、家禄500石の旗本は、現代に置き換えると年収2000万~2800万円に相当する。

幕府の規定により500石の家格は、「いざ戦の時は、当主は馬に乗り+徒歩の家臣10人を引き連れて参陣せよ」とあり、先程の2000万~2800万円から家臣に給料を払わなくてはならず、平時はその半分に抑えて召し抱えていたらしい。中間、奴などは今でいうアルバイトを採用(当時アルバイト紹介業である口入れ屋が繁盛)した。それでも戦の備えとして、常時武具の手入れをかかさず、屋敷内に馬を飼うなど、当主は家制度の苦しい経営を迫られた。平和の世が長く続くと、武具を質に入れ、旗本株や御家人(将軍に拝謁できないもの)株を売却するなど、不届きな武士が出てきた。

そうした苦しい生活をおくるのは家禄のみの小さい石高の旗本で、御番入り(仕事を得れば)をすれば、役高がこれに足され、暮らし向きは大いに向上した。やがて年配になり、番方の組頭や目付、奉行等に就くと役高としてさらに600石~3千石が足された。小普請組(無職)で一生家禄だけの暮らし(勝海舟の父小吉がそうであった)と仕事を得て御番入りの旗本では雲泥の差が生じた。いつの時代も宮使いは厳しいものだ。

2019年5月13日 (月)

江戸の切れ者、筆頭大目付・井上美濃守利恭

美濃国の戦国武将、井上3兄弟の3男井上定利(利定)の長男に井上利義(利仲)がいるが、大阪の役後二条城で徳川家康に御目見えし、許され、井上家初代の直参旗本となる。その系譜が徳川綱吉の時、綱吉の嫡子に仕える形で井上分家が誕生したが、若君さま早世により一時小普請入りするが奉公に励み、本家分家とも幕末まで御家を全うする。

両家とも家禄500石で、極官としては布衣の組頭、留守居、若年寄支配の奉行などがほとんどだが、中には従5位下美濃守(諸大夫)を叙付された当主がいた。彼の名は、井上美濃守利恭(1749年―1820年)といい、1798年に49歳で作事奉行(役高2000石)からの栄転で大目付(役高3000石)を仰せつかり、72歳までの23年間にわたりお役目を果たした人物である。

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彼の大役の一つ、徳川家斉の時代(1810年)に朝鮮通信使の幕府供応役を務めたことである。正史が小笠原小倉藩主、副使が脇坂竜野藩主で、いずれも大名であるが、幕府の実務的責任者・御用掛を当時の筆頭大目付兼帯道中奉行の井上美濃守利恭が務めたのである。

歴史的には江戸時代最後の朝鮮通信使といわれ、朝鮮通信使は本来江戸の将軍に朝鮮国王の国書を携えて謁見するが、その江戸まで来ずに長崎の対馬で供応したことが記されている。これは双方合意の上で成立したもので、財政的にも相互に負担を減らす効果があったという(本来江戸までの道中供応には100万両かかるが、朝鮮国の日本側窓口の対馬で行うことで、幕府は38万両で済ませたという、しかも江戸から3000人を派遣することで簡易に済ませている)。井上美濃守利恭は、儀礼にかかわる一切の仕事を完了させて、翌1811年に江戸に戻ったことが幕府の公的記録に残っている。彼にとって心身共にたいへんな重責を果たしたことになる。慶賀の朝鮮通信使の供応には、100万両はかかるといわれている経費を、その半分以下に抑えた手腕は、彼の京都町奉行、作事奉行時代に培った経済コストを考えた手法といっても良いだろう。まさに切れ者美濃守である。

これを知ったのも2017年岡山での仕事の帰りに、岡山在住の旧知の友・中山氏と岡山県牛窓町にある朝鮮通信使資料館を訪ねたことに始まる。

井上美濃守利恭の職歴が、今風にいえば典型的なキャリア官僚コースであるので、当ブログにてご紹介しよう。

彼は、18歳で将軍家治にお目見えし、井上本家の家督を継ぎ、小普請入りを果たしている。そして20歳で小姓組入りし、20歳代は進物御番を務めている。34歳で将軍外出時の警護を担当する小十人頭(現場の警護責任者で役高1000石)となり、布衣(6位相当)を許されている。

37歳で旗本5000家を取り締まる目付に就き、39歳(1788年)で遠国奉行の一つ、京都町奉行(役高2000石)に就任している。当時幕府は体面を保つため、江戸から京都に向かう遠国の奉行職には、赴任手当として300両を下している。京都の町の半分が燃えた大火直後に、京都の町の治安維持と町の再生に江戸幕府官僚の若手のエース級を江戸から送り込んだことになる。ここまでは順調なエリートコースであり、家格500石ながら役高は4倍の2000石、そして官位は大名クラスの従5位下美濃守を賜っている。

彼は42歳になると江戸に戻り、今度は作事奉行を務めるがここで辣腕を振るう。江戸城の修復ばかりでなく、久能山東照宮や日光東照宮、世良田東照宮などの修繕責任者として現地に赴き、腕を振るうことになる。記録を見ると将軍から各地の修繕完了の度に大判の金子(黄金)を5枚、10枚と下賜されている。そして作事奉行としては7年間をつつがなく勤め、49歳でとうとう直参旗本の最高役職の一つ、大目付(役高3000石)に昇りつめるのである。その後、彼は大目付に23年間も在職(江戸期で最も在任期間が長い大目付の一人)し、在任中に筆頭大目付となり、道中奉行も兼帯し、美濃守といえば切れ者大目付の井上美濃守といわれるまでになった。

時は将軍家斉の寛政改革の世、寛政重修家譜によれば、作事奉行時代は、修繕を美しく仕上げ、経費を切り詰め、いわばコストカッターとしての手腕を発揮し、幕閣に井上美濃守ありといわれた。

そして62歳で大目付のまま朝鮮通信使(第12回)の幕臣筆頭供応役(あの遠山の金さんの父親も配下の目付として同行、その後長崎奉行を務めている)を長崎対馬でやり終え帰府すると、翌年の63歳には諸家系譜書継御用を相務め、徳川家斉の時代(50年間)、寛政の改革を支えた有能な幕臣の一人となるのである。

井上美濃守71歳のおり、幕府に老衰願いが受理され、隠居を仰せつかり寄合旗本へ、その後幕府より養老料として切米300俵を賜り、72歳で鬼籍入りするまで、恙なくお役目を果たしている。

歴代の井上家の過去帳を見ると、一番長い戒名が付けられている。多忙のなかで後妻を迎え、江戸から長崎の対馬まで供応・御用掛として往復道中2年の歳月を費やし、切れもの井上美濃守利恭の人生は休むことのない、まさに走り続けた激務の一生であった。

☆詳しくは、拙著『我が家の女系史伝』CB総研出版部 2020年を参照されたし