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歴史

2018年8月 9日 (木)

私の歴史スペクタル

過去のブログに掲載した私の歴史観を一堂に集めてみました

写真は、長井斎藤、井上家の家系図(元・旗本井上家で写す、元禄時代のもの)
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*右端に斎藤山城守道三の名前が見える。長井隼人正には3人の息子がおり、井上3兄弟としてその名前が上段にある。斎藤道三には、19人の子供がいたという。信長室という道三の娘、濃姫・帰蝶の名前も見える。
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1.あなたの先祖にあの有名な歴史的人物がいるかもしれない

 http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-9eed.html 

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*斎藤道三肖像画は娘の濃姫が斎藤家の菩提寺に寄贈したもの
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2.今昔物語、芋粥をご馳走するご先祖様とは?

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*金沢駅の戦国武将・前田利家の絵

.直参旗本の生活経済学

http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-634f.html

4.われ森鴎外の史伝にならい、わが家の女系史伝をなさんとほっす   http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-da30.html

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5.森鴎外へのアンサー編「わが家の『伊沢蘭』に続く女系図物語」
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6.将軍秀忠妻お江と親戚関係にあった井上時利
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7.旅のブログ700回記念、江戸の歴史は白い
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8.武家の慣習が今も生き続ける日本の役所
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9.戦国武将長井道利の真実、ついに過去帳を発見
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10.私のご先祖探しはつづく、どこまでも
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11.大政奉還から150年、武家の商売はその後うまくいったのか、岡山奉還町商店街
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12.岡山県倉敷市の楯築弥生墳丘墓の謎に迫る
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13.司馬遼太郎が著したスズカケの木の歴史観は終わったか?
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14.戦国武将長井道利の義父?稲葉良籌について
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15.日本史オムニバス、長井忠左衛門のこと
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16.地域の歴史風土と先祖の生きざま
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17.ルーツ探しとコミュニティ研究
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18.尾張名古屋は人でもつ
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19.美濃の国を行く、道三ゆかりの地
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20.墨田の葛飾北斎
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21.私の仕事は一期一会を地で行く寅さん稼業
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22.この国の”魔の風体”、すなわち魔風の意味を考える
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*前九年後三年の役に出陣する源義家を称えた銅像(武蔵国一宮へ戦勝祈願したと伝わる)
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*縄文の亀ヶ岡式土器や遮光器土偶は素晴らしい日本の文化(青森県つがる市のJR東日本木造駅)

2018年1月12日 (金)

将軍秀忠妻お江と親戚関係にあった井上時利

歴史好きな細内所長のよもやま話

旗本井上家 http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-da30.html の続編

☆彡閑話休題

織田信長の孫、三法師こと織田秀信(美濃国の稲葉山城を拠点とする)は、1600年関ヶ原で豊臣方の西軍についた。

そのため戦後、多くの美濃国人衆は織田秀信についたため徳川家康の裁定で領地を失い、浪人となったものは少なくなかった

☆過去帳の一部

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歴史書では長井道利が一般的だが、旗本井上家所蔵の関係資料では、忌み名の”利”は最初にくることが多く、長井隼人正利道となっている。齊藤山城守のみ正利で”利”が下についている。

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斉藤道三の庶子・長井隼人正道利(美濃齊藤家の3代目齊藤龍興の家老として最後まで織田信長に抵抗する)の息子、井上3兄弟も主家齊藤家が信長に滅ぼされてから、苗字を長井から井の字を上にあげて井上に改名し、その後織田信長、豊臣秀吉、秀頼に仕えた。3兄弟の長男井上道勝は秀吉の黄母衣衆の一人といわれた。次男の井上頼次は大坂冬の陣で豊臣方の鉄砲隊長として討ち死したが、今回は井上3兄弟の三男・井上時利(小左衛門尉定利)に焦点を当てたい。

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京都大山崎の油祖離宮八幡宮(岩清水八幡宮元宮)にて、第48代津田宮司さんと記念写真を撮る(戦国期に菜種油の油座があったお宮である)

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井上時利の母は文献では不明だが、旗本井上家のお寺過去帳には、長井道利の妻として稲葉宗張の娘が記載されている。たぶん文献に出てくる道利の妻、すなわち遠藤氏の元妻を後妻に迎えたが、織田信長により美濃追放前後に離縁し、彼女の子息のいる遠藤氏のもと・郡上八幡?へ帰したものと思われる。よって三男井上時利(1566年生まれ?)の母は稲葉氏の可能性がある。

⇒その推測は以前、当ブログ http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-79d3.html で取り上げている

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時利は関ヶ原の戦いで西軍につき、先ほどの理由で1600年以降は浪人となるが、1614年の大坂の陣で豊臣秀頼から召され、侍大将の一人として、道明寺の戦いで薄田兼相らと一緒に討死する。

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井上時利の嫡男井上利中(母は赤座七郎右衛門の娘(赤座七郎右衛門の妻は織田信安の娘)、つまり彼は長井齊藤氏、赤座氏、織田氏、稲葉氏?の血筋を受け継いでいたことになる)は、当時12歳で父の人質として大坂城にいたが、落城後、京都の石清水八幡宮に落ちのびていた(赤座七郎右衛門は齊藤道三の家来、織田信安は齊藤義龍、龍興の家来という)という。

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この少年井上利中が2代将軍徳川秀忠の妻・お江や織田有楽斎、板倉勝重京都所司代らの助命嘆願によって、大坂夏の陣後すぐに二条城で徳川家康に面会し、罪を許され、徳川秀忠の直参旗本となるのである。

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その理由として考えられるのは、お江は浅井氏の出(浅井長政の娘、淀殿の妹)、後齋藤の3代目齊藤龍興の正室は浅井氏の出(浅井氏の娘)で、その龍興の家老が長井道利(利中の祖父)であり、道利の娘が龍興の母という。いわば浅井氏と親戚関係にある長井道利、井上時利の嫡男・利中を助けたのである。だからこそ関ヶ原、大坂の陣と立て続けに負けてもその罪を家康から許され、徳川家の親衛隊・旗本井上家として、本家・分家(江戸初中期に御納戸役を務めたため、家を絶やさぬよう将軍家から別家設立の許可を得る)ともにそれぞれ500石で明治維新、現代まで生き残るのである。

☆彡

2017年9月15日 (金)

日本史オムニバス、長井忠左衛門のこと

六尺の大男といえば、身長180㎝の男子のこと。 西郷どんも、坂本はんも、福澤諭吉さんもみんな六尺の韋駄天だった。 当時日本男児の平均身長は153㎝くらいだから、庶民は彼らを見上げるようにして話をしていた。 二宮尊徳さんも六尺の大男だった。 幕末の一大事を成し遂げた人物は、おおむね韋駄天の大男だった。 しかし幕臣勝海舟は150cmくらいの小男だった。 そういえばナポレオンも小男である。

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*東京墨田区にある能勢の妙見山にある勝海舟像(妙見さんは旗本能勢家の屋敷内にあったもの)
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下野国足尾郷は江戸幕府の銅山直轄地であったが、幕末のころ銅の産出が枯れ、天保の飢饉の煽りも受け、農民(当時は住民といわず農民といった)の流失が相次いだそうだ。明治10年古河市兵衛(古河財閥の祖)がその銅山を安価で明治政府から払下げを受け、その後、銅の大鉱脈を発見し、古河は財を成していく。と同時に、わが国は、近代国家として殖産興業、坂の上の雲を目指して躍進が始まる。
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その歴史の1ページを栃木県にある稲荷神社から推し量ることが出来る。現在の日光市足尾町切幹の稲荷神社(元は京都伏見稲荷から分祀か?)から分祀された宇都宮市西川田町996の稲荷神社(石塔から1846年ころの創建か)である。
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それは足尾からの農民移住がもたらしたもので、幕末時に足尾郷原集落の農民数名が新天地の下野国河内郡西川田村(現在の宇都宮市西川田町)に移住し、新田開発を行い、そこに故郷足尾の稲荷神社を勧請した?のである。
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移住した農民の戸籍簿を調べて見ると、1854年に移住先で子供が生まれている。開墾地での最初の子供である。
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こうして江戸幕府の威信体制が崩れ、西洋文明を積極的に取り入れた薩長土肥の近代国家を目指した”ご維新”が始まるのである。
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*大魔神は古代・古墳時代の武人埴輪がモチーフ
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*戦国時代創建の城は戦闘城で、カラスのように黒の場合が多い

美濃の戦国武将長井道利の長子・長井道勝は、またの名を長井忠左衛門といい、主家の斎藤家滅亡後は苗字を井上に変え、井上道勝と名乗った。いわゆる井上3兄弟の長男である。

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国会図書館から取り寄せた書誌「岡山藩家中諸士家譜五音寄1~3」(倉地編集)によれば、井上道勝は長良川の戦いで祖父(伯父?)齋藤道三を生け捕りにしようとしたが、取り押さえ損ない、あとから駆け付けた小牧源太に手柄を横取りされた。

その落胆のため高野山に引きこもり世をはかなんだが、豪傑がゆえに織田信長より召し出され、その後、信長配下の池田輝政の客分や太閤秀吉の親衛隊黄母衣衆の一人として豊臣家に仕えた。

井上道勝の子、長井新太郎は信長の子・織田信忠に仕えたが、本能寺の変で信忠と共に二条で討ち死にしている。

長井新太郎の子?、纐纈六右衛門から、纐纈三十郎、熊田所左エ門、長井権助と続き、岡山藩が家中諸士家譜の作成時(1690年頃?)に上述のような先祖書を提出したが、途中で纐纈、熊田姓などが記載され、養子?女系等でつながった可能性が高い。

しかし、その子孫は1819年の長井正之進をもって井上道勝(長井忠左衛門)の家系は途絶え(出奔した?)ている。そうしたことが岡山藩の池田家履歴略記に記載されている(下記参照)。

池田家履歴略記 上巻・下巻

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*池田家履歴略記 上巻・下巻

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*池田家の公式記録書(池田家履歴略記)に載っている長井忠左衛門のこと

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*木像は、権現様こと、徳川内府(織田信長は織田右府)、東照大権現・源朝臣家康

2017年8月15日 (火)

岡山県倉敷市の楯築弥生墳丘墓の謎に迫る

細内所長は、地域づくりという仕事柄、全国各地の古墳や墳丘墓、古代遺跡を数多く見歩きしてきた。

私は、北海道旭川の博物館では、アイヌ文化と北海道の土偶に触れ、青森県では、三内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡、福岡県吉井町(現・うきは市)では、筑後川添いの月岡古墳や珍塚古墳の壁画を拝見し、奄美の徳之島では、線刻石遺跡を案内され、吉備国では、造山古墳、作山古墳、両宮山古墳を案内してもらい、毛国(栃木・群馬)では、侍塚古墳、摩利支天古墳や太田天神山古墳、観音山古墳などに登頂し、宮崎の西都原古墳群では、借りた自転車ですべての古墳を巡回し、さらには大阪堺の大仙陵古墳では、その外縁部を歩いて一周し、その大きさを自ら体感したことを矜持としている古代史研究家である。

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今回はじめて、岡山県倉敷市にある楯築遺跡(弥生後期の墳丘墓)を訪ねる機会を得た。しかも偶然にも墳丘墓の管理をされている方に難儀をしているところを助けてもらい、その墳丘墓と収蔵庫を案内されて、実物のご神体・亀石や発掘された朱を見せてもらうことができた。まさに怪我の功名とはこのことである。不思議な体験である。
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ここの亀石は、実は2体あり、一つが収蔵庫にしっかりと保管され、もう一つの破壊されたものが整理されて岡山大学にある。大王の木棺を上下の亀石で守っていたのである。
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*墳丘部の石の祠に昔はご神体の亀石があったという

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*墳丘部の遠景

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*木棺が埋葬されていたという頂上部付近、岡山大学教授の近藤義郎氏(栃木県足利市出身)によって調査が進められた。近藤氏は月の輪古墳も発掘している。

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*中央の円墳から両脇に突き出しがあり、前方後円墳の始まりではないかと言われている

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*収蔵庫に保管されている朱、桐の小箱に分けて保管されていた。発掘時に32キログラムも出たという朱は、桐箱に納められていたが、小箱でもかなり重いものである。この朱(水銀)は中国製?であるといわれている。

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当日はカンカン照りのなか、JR吉備津駅から歩いて現地入りしたが、丘の上にある墳丘墓の入り口で地神さまと水神さまに偶然にも出会った。これらの石碑を見て、現代社会の地域神であるが、1800年前の弥生後期の神様・すなわちご神体が亀石ではないかとふと感じた。そして、この世とあの世を結ぶ結界の目印がご神体・亀石の役割ではないかと思った次第である。
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*楯築神社・墳丘墓への入り口に地神と水神が並んで鎮座している

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*住宅団地の造成で突き出し部分が失われてしまった(現況)

楯築遺跡からは、2つの亀石が出ているが1つはきれいな状態の孤帯石・ご神体、もう一つは多くの小片に破損された亀石(岡山大学で本物を見ることができた)だ。
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*小片に破壊され埋蔵されていたもう一つの亀石(写真は岡山県古代吉備文化財センターのHPより引用、岡山大学所蔵) 

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*墳丘部から出土した特殊器台(写真は岡山県古代吉備文化財センターのHPより引用、岡山大学所蔵)

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☆収蔵庫の正面に掛かる額の読み方は楯築宮?という

これは私の直感だが、亀石は前述の地神さまと水神さまの考えの源流(1800年前)ではないかと思っている。地神さまは小片に分解され地中に埋蔵された、そして地上に安置された亀石は水神さまとして、後世の楯築神社のご神体として大切に保管・安置されたのではないか、そう思いを強くした次第である。
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2017年6月 2日 (金)

戦国武将長井道利の義父?稲葉良籌について

細内所長の歴史研究の対象である旗本井上家の直接のご先祖にあたる美濃の戦国武将長井道利(?-1571)の義父?稲葉良籌について、下記写真の画賛の現代語訳が判明した。長井道利の妻は遠藤氏の未亡人を記載しているものもあるが、長井道利が織田信長に稲葉山城を追われてからは、遠藤氏の未亡人は故地の郡上八幡に帰っている。その後、稲葉良籌の娘と一緒になったものと考える。

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京都大徳寺の高桐院にある重文の稲葉良籌像。画賛は当時の大徳寺住持古嶽宗亘(1465-1548)によるもの。
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当方の依頼により京都高桐院の住職さんから直接ファクスでその画賛の内容が寄せられた。
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臨済宗大徳寺派では、稲葉良籌を稲葉宗張とも表記し、戦国武将長井道利の妻は、大徳寺派の過去帳には稲葉宗張の娘(女)と記載されている。
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上記写真は、稲葉良籌の画賛の現代語訳だが、これでも稲葉氏の誰に当たるか、今でも不明である。稲葉一鉄(稲葉藩藩祖の父、一鉄の父と兄5人が浅井氏との戦いで1525年に戦死したため、出家していた六男の一鉄が家督を相続した)の親族であることは間違いないだろう。
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1526年にこの画賛をしたためた大徳寺住持の古嶽宗亘の記録から類推するしかないだろう。室町幕府の権威は長引く応仁の乱で大きく失墜しており、同年には徳政令が出されている。
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前述ブログの佐藤論文には、幕末時に稲葉藩主の隠居連絡を、長井道利の子孫旗本井上美濃守家、別家井上分家(井上熊蔵は当方より6代前の先祖)とともに、その使者が派遣されていることからも、大名稲葉家と旗本井上両家は親戚関係を300年以上も続けていたことになる。それは旗本井上家の初代井上利義(利中)の祖母が稲葉良籌の娘(女)ではないかと私は見ている。
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稲葉良籌は、美濃国稲葉氏の誰に当たるのか、お分かりの方はご教示くだされ。
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2017年4月 8日 (土)

戦国武将長井道利の真実、過去帳を発見

細内が取り組んでいる旗本井上家の研究で、井上家の開祖である戦国武将長井道利(齋藤山城守正利の男と記載あり)の正室名が、その菩提寺(黒田家の建立)にある過去帳から判明した。長井道利は3度?正室を迎えている(1度目は井上兄弟の母か?しかし名前は不明、2度目は東常慶氏の娘、3度目が今回の稲葉宗張の娘、井上姓の3男井上時利:1566年生まれの母の可能性がある)。また齋藤道三の娘が稲葉一鉄の息子に嫁いでおり、豊後臼杵藩の藩祖稲葉貞通の正妻となっている。その血脈は公家を通して現在の皇室まで繫がっている。

☆そして稲葉家と井上家の付き合いは江戸幕末まで続く。(2015年7月5日の上記リンク記事<旗本井上家の研究>より;文献を検索していくと、さらに興味深い論文を目にした。それは佐藤論文(1998) の「大名の隠居・家督願について」の中に豊後臼杵藩5万石の11代当主稲葉氏の隠居に伴うお知らせ先に井上美濃守(井上本家・井上利泰大目付)と合わせて、分家・井上熊蔵の名前が出てくるのである。稲葉氏と井上(長井斎藤)氏は美濃国において稲葉宗張の戦国時代から親戚関係にあり(佐藤論文ではそこまで触れていないが)、300年後の江戸幕末までそうしたお付き合いを維持していたことは、下記の長井道利の正室・稲葉宗張の女(娘)からもその関係が類推できる

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*齋藤越前守利永に始まる長井斎藤流・井上氏の臨済宗過去帳
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過去帳には長井隼人正利道(元亀2年8月28日没)あり、菩提寺の過去帳上では道利が利道になっているが、これはよくあること。その左にあるのが同室、つまり道利の正室のことだが、歴史上では長井隼人佐の正室は東常慶の娘(遠藤慶隆の母)が一般的だが、ここでは稲葉宗張殿の女(娘)となっている。しかも慶長10年(1605年)に亡くなっている。また同じ京都・大徳寺の芳春院(前田家の建立、紫衣事件で沢庵と一緒に連座した玉室宗珀;長井道利の息子か?がその開祖:国立公文書館蔵の井上家家伝では玉室は長井道利の子供と記載)に、その正室の木像が安置されていると記載されている。つまり宗珀の母親の木造が芳春院にまつられていることになる。明治期の廃仏毀釈で現在不明の可能性がある。
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そこで稲葉宗張とは、いかなる人物か調べて見た。京都大徳寺の高桐院(細川家の建立)にその稲葉宗張(良籌)の肖像画を発見した。
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*稲葉宗張(良籌)の肖像画
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*大徳寺住持の古嶽宗亘によるその賛
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稲葉一鉄(1515~1588)の肖像画にも似ているが時代が違う。それは1526年に古嶽宗亘がその賛を書いていることからも分かる。1526年では稲葉一鉄がまだ11歳の時である。彼には5人の兄がいたから一鉄の兄たち、もしくはその父親(父を含め、いずれも牧田の戦いで戦死している)か、父親関連の稲葉一族かもしれない。
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肖像画の出典:文化庁監修『国宝・重要文化財大全』1絵画(上巻)毎日新聞社1997年
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*端正な顔立ちで30歳代の人物と思われる。この肖像画は国指定の重要文化財である。
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上述の長井斎藤家(藤原姓齋藤流井上氏)と稲葉家の親戚関係(長井道利の正室という立場上、井上時利や玉室宗珀の母の可能性は高い:少なくとも井上家の過去帳上はそうなっている)は、新しい発見である。だから日本の歴史は面白い(細内談)。
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☆姓は藤原、苗字は齋藤、禄は井上、公式の文章には必ずこう表記した旗本井上家
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☆長井豊後守から始まる家系図
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2017年2月24日 (金)

旅のブログ700回記念、江戸の歴史は面白い

江戸の歴史、ある旗本家の由来書から

写真は東京都港区愛宕神社の通称出世の階段(男坂86階の石段)、丸亀藩の武士曲垣平九郎が3代将軍家光の命で、この階段を馬で駆け上がったからすごい。

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ある旗本家の先祖書より抜粋
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江戸愛宕下に屋敷があった旗本井上別家の2代目当主・井上利實(本姓藤原氏)が所持していた「齋藤系図」を下野(元領地)で目にした(そして、それらをカメラに収めた)。<旗本の生活経済学はこちら> 
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*それは初代長井豊後守から始まるものだ。齋藤山城守(道三)も長井豊後守の子として記載されている。井上3兄弟の父・長井隼人正はその弟にあたる。織田信長室の帰蝶(濃姫)の名前もある。一色治部大輔は斎藤義龍のこと。稲葉右京亮は臼杵藩祖で稲葉一鉄の子。
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家系図の最後に元禄3年に彼が井上本家の井上(藤原)利盛より家系図(家系図の元は岡山池田藩士・齋藤弥三郎〈道三の子・利治の子孫〉が持っていたものと、最後に記してある)を借り、それを井上利實が写したものと記されている。元禄3年は西暦1690年で5代徳川綱吉の時代でまだ水戸黄門が水戸藩主のころだ。長井道利の家臣であった関藩主の大嶋雲八の名前も見える。
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井上姓の前は美濃国の長井姓で、織田信長により主家齋藤家が滅び、滅亡後にその子孫は井上姓に改姓した。しかし井上家の本姓は利仁流の藤原氏であり、今でも渋谷区広尾にある菩提寺の墓石には、藤原姓井上家と記されている。
(完)
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追記情報
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2016年12月15日 (木)

あなたの先祖にあの有名な歴史的人物がいるかもしれない

私の専門はコミュニティ・ビジネス(CB)による地域創生だが、一方自称歴史学者でもあり、全国各地をCB講演などで訪れるたび、各地の名所旧跡にはできるだけ立ち寄ることにしている。

細内の家は平民の出であり、日光市足尾の磐裂神社には大同3年(808年)創建時のメンバーに細内の名前が出てくるがはっきりとは分らない。1200年前まで遡れれば、ほんとはすごいことだが関係古書を幾たびかの火災で紛失し、言い伝えが錯そうしている 。残念なことである。

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閑話休題

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母方の明治生まれの祖母から子供の頃、就寝前によく聞かされた話しに、祖母の母親は、江戸幕府旗本の井上家(本姓は藤原氏、家紋は撫子)で、明治のはじめに祖母の実家である栃木市の造り酒屋に嫁に来たとのこと。
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そこで私も50半ばをすぎたころ祖母の話しを確かめようと、国立公文書館の旗本諸家譜(国として江戸時代の公文書も一般公開している。そしてそのPDFも簡単にインターネットで引き出せる)をひも解いてみた。後日確認すると井上家で見せてもらった家伝家譜に関する資料とほぼ同じであった(井上家のものは元資料だからさもありなんである)。
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祖母の母親は、私から3代前にあたり曾祖母となる。彼女を通して武家の血筋が入ることによって、平民の私にも戦国武将とのつながりができることを発見した(明治期に武家の女子を嫁にもらえが有力商家で流行ったらしい)。
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これも6次の隔たりの法則 と同じであり、男系だけではなく、女系も調べれば、だれにでもこうしたことが起こり得るのだ。最後はアダムとイブにつながるのかもしれない(笑い)。
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*江戸幕府に提出された8代前のご先祖井上多門の旗本井上家・先祖書の控えである
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*一方母方の実家は城下町の商家であった。4代前の当主が中央に座る(写真は明治末期ごろ。当主が武家の血をひく嫁を孫(私の祖父)の嫁(私の祖母)にもらったのが小生へとつながっている。
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以下に、曾祖母の実家・旗本井上家の物語を紹介する。
*
当ブログで先に紹介したものは今回なるべく省くことにする。
*
よく調べて見ると、井上家は初代長井隼人佐道利(斎藤龍興の家老、家紋は斎藤氏と同じ撫子)を家祖(15代前のご先祖?)とし、美濃国兼山城18万石の城主(関城主も兼ねる)であったが、織田信長に敗れ、長井隼人佐の息子3人はその名字を井上(長井の井の字を上にあげて井上とする、旗本家井上分家でその名字の由来を聞く)に変え、その旗下に入る。
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☆過去帳には、斎藤越前守利永を初代として記載されている。左端には長井隼人正(佐)の室(妻)が記載されている。
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そして長井隼人正の3人の息子はやがて織田信長、豊臣秀吉の馬廻り役(親衛隊)となる。現在、NHK大河ドラマ真田丸の真田信繁の同僚として、上の兄弟二人は秀吉の親衛隊・馬廻り役(黄母衣衆)として歴史書に見つけることができる。
*
長井道利は斎藤道三の弟、もしくは庶子という説もあるが、美濃守護代の長井・斎藤氏の系譜をひく長井長広の子と言う説もあり、その真偽は不明である。
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しかし長井道利の兄弟姉妹には、信長の妻、濃姫や筒井順慶の妻、真田丸で有名になった公家の菊亭晴李の妻(真田信繁の母がもし菊亭晴李の娘なら、真田家と井上家は遠い親戚になる)、明智光秀の家老・斎藤利三の妻、稲葉一鉄の息子で豊後臼杵藩初代藩主の稲葉貞通の妻(その系譜が有力公家に入り、現代の皇室にも繋がっていく)、そして斎藤義龍など、戦国大名や有力武将の妻など歴史上の有名人がそうそうと並ぶ。
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また江戸初期の天海らによる紫衣事件として、同僚の沢庵和尚と一緒に流された京都大徳寺住持の玉室宗珀和尚は長井道利の子であると、江戸幕府公文書の旗本諸家譜(井上家系譜)に記載されている。
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玉室宗珀は臨済宗大徳寺芳春院の開祖である。旗本井上家の菩提寺は今でも東京渋谷区広尾の祥雲寺(臨済宗大徳寺派)にあるが、その過去帳(上記の写真)には長井道利の妻(稲葉宗張の娘とある、稲葉一鉄の一門か)の木造が京都大徳寺の芳春院(前田家の創設)にあると記載されている。これは彼が長井道利の子である証であると私は推察している。
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そして長井道利の三男・井上時利は摂津国の代官であったが、関が原では織田秀信(信長の孫、三法師)の西軍につき領地没収で浪人となり、大坂の役では豊臣秀頼方として大坂の陣の冬・夏配置図に侍大将の一人として、その名が歴史書等に収められている。勇猛な武将であった。
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戦後、井上時利の子・利仲は、二条城で徳川家康に会い、許されて徳川秀忠の直参旗本となる。この家が明治維新まで井上の本家(美濃守)・分家に分かれて続くのである。井上両家とも500石の家格ながら、大目付、目付、京都町奉行、駿府城武具奉行、作事奉行、小納戸、西の丸留守居、二の丸留守居などの役職を務めている。私の祖母の母親は井上分家の出である。
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旗本井上家初代の井上利仲の母は、織田信長配下の赤座長兼の娘であり、その赤座氏の妻は信長の親戚筋である守護代織田信安の娘である。これで赤座、織田の血筋が井上家に入ることになる。
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また大河ドラマ真田丸の主人公真田信繁の上司、秀吉の秘書室長であった七本槍の平野権平は大河ドラマではひょうきんな役回りで描かれているが、賤ケ岳の七本槍で唯一大名になれなかった一徹ものである。その平野家から幕末時に井上分家に嫁してくるのが、私から5代前のおばあさんにあたる人である。
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平野家は鎌倉幕府北条執権家の北条高時の子孫を標榜しているが本当かどうかわからない。北条高時の遺児北条時行は信濃国から諏訪氏等の援軍を得て、武蔵女影ケ原で足利勢に勝利し、一時鎌倉の地を回復したが、その後駆けつけた足利尊氏に敗れている(中先代の乱)。
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私から4代前のおばあさんは高祖母にあたるが、この人の写真を旗本井上家分家宅で撮らせていただいたが、彼女は野州壬生藩鳥居3万石の筆頭御典医・匂坂氏(漢方医、二十人扶持)の娘である。しかしその主人である井上家分家の当主井上利明の写真は残っていないという。西郷隆盛と同じく、昔の人は写真を撮ると魂を吸い取られると思っていたらしい。だから今でも神社の本殿は、写真に撮らない方がよいといわれている。
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*井上辨次郎(利明)は、私から4代前の高祖父にあたる。利明は元領地のあった陣屋・屋敷で明治5年に寺子屋をひらく。それが現在地元にある小学校へとつながっていく。
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それにしても黒船ペリーが浦賀に来なければ、徳川幕府の崩壊はなく、旗本井上家も存続し、井上家の娘(曾祖母)も造り酒屋に嫁に来ることもなく、かつ細内家が明治維新時に日光のお山から降りてくることもなく、よって私も存在しないことになる。
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歴史にもし?は禁句だが、人生何が繫がるかわからないものである。
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☆これもご縁、あれもご縁、ご縁は本当に大切だ。
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2016年12月韓国完州郡の招待講演時に訪問した完州CBセンターにて
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2010年7月韓国ソウルのカンファレンス・ハウスにて、招待講演時に使用する
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1998年米国シリコンバレーサンノゼ市の女性起業家を訪問する
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☆あのクローズアップ現代にも、地域コミュニティ、コミュニティ・ビジネスの専門家として出演する
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☆私は、テレビに、地域づくり、コミュニティの専門家、CBの提唱者として出演することがある
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