東京墨田区のさいとう工房に法政大学大学院政策創造研究科の学生を引率する
・読売新聞のヨミダスのヒット数は、15件
・朝日新聞のクロスサーチのヒット数は、15件
・日経テレコンのヒット数は、27件
・雑誌記事・論文のヒット数は、55件
・日本工業新聞「シンクタンクの目」への連載(寄稿)記事(紙面は、A3サイズの大きさ)は、4件あり
・専門紙への連載は、ダイヤニュース4回、信用金庫新聞8回、生産性新聞6回である
・Google scholarでの引用件数は、2,530件
そして
・39年間での講演回数は、3,000回(日本国内の47都道府県全部をまわり、海外の招聘講演は5回(韓国4回、台湾1回))を超えた
・著作は27冊で
・そのうち海外における出版(韓国語版)も2冊あり
・論文数はなんと64件となっている
・テレビ・ラジオ(月一回の3年間出演の湘南ビーチFMラジオは、1回のカウントとする)の出演回数は、56回を超えた
・海外視察や招聘講演は、20か国に及ぶ
40年間の研究者として、テーマの新規性を含め、まずまずの成果ではないだろうか
『研究の専門性は、自分で拓くもの、そして深めるもの』が、私の持論である。
☆付則情報として
東京都稲城市中央図書館(ほぼ全著作の56件所蔵)ならびに稲城市あいプラザ図書館(こちらは代表的な著作20件のみ所蔵)には、細内信孝の全著作95件(稲城市内の他館を含む総著作数)を寄贈しましたので、住民主体の地域経営や社会的起業、社会的企業等を研究するコミュニティ・ビジネスの研究者や学生には福音でしょうか。
3.「情報と情報財」研究の軌跡
私は、1980年4月から6年8か月勤めたドイツ系外資系企業ヘキストから、1987年2月に私立大学の経営コンサルティングセンターの研究員になった。本業の経営コンサルティング以外の自主研究として、前職の時から関心があった”情報”について勤務先の姉妹校短大の田中功助教授(後日、田中氏は、日本女子大学の教授となる)の先導のもとに共同研究を始めた。その成果が次の一連の論文(1989年~)であった。
専門図書館123号(1989年4月発行)の拙著の中にはじめて”情報財”という言葉が出てくる。

<以下の写真は、クリックすると拡大します>
そして情報財という言葉が、まだグーグルやほかの検索エンジンにも出てこない時期(1987年から1990年代初頭)にいち早く興味を持ち、その概念形成に果敢に取り組んだ(これを研究という)。そして、その論文が、勤務先の大学法人の姉妹校である産能短大の1990年2月発行第23号の紀要に掲載された。それが、次の拙著・論文(情報財の基礎理論に関する研究:査読あり、1989年10月の受理)だ。
紙面の関係で写真はここまでとし、小論を詳しく知りたい方は当時筆者が在籍していた産能短大(現・自由ケ丘産能短大)の図書館(短大紀要第23号、1990)へ、ご確認ください。オリジナルが所蔵されている。
さらに、当時新しく設立された情報文化学会の全国大会での発表とその成果をまとめたものが次のものである。すでに大学の研究員から大手信託銀行のシンクタンクに移籍(1991年)していたため、細内の肩書は、住信基礎研究所副主任研究員となっている。
当時1990年代の論文は、まだまだ手書きの図表が幅を利かしていた。次の図表も自ら描いたものだがたいへん懐かしい。
この時(1993年11月発表)の論文は、国立国会図書館のデジタルコレクション(学会誌は1994年7月発行)に収められているので、そちらをご笑覧ください。
この学会発表がご縁となり、大分県の豊の国シンポジウム(大分医科大学主催)から招待され、”情報と情報財”についての講演話しが舞い込んだ。しかもノーベル化学賞受賞者福井博士の前座で”情報と情報財”の講演を行うのである。嬉しさ100倍である。

福井先生の写真の下にある会場の写真に私と後に東大教授になる川口さんも隣同士で写っている。統一テーマは「発想の原点を探る」である。私は、とうとう念願の「情報創造と情報財」について招待講演を行った(1994年5月)。
これらの「情報と情報財」に関する一連の研究が1987年から始まり、2007年から2020年3月まで連続13年間務めることになる総務省の”地域情報化アドバイザー”に繋がるのである。
4.研究テーマが面白ければ、それは芋ずる式に広がっていく
☆彡
デジタル庁は果たしてうまく機能するのか?
私は勝手に、DXの旗振り役と行政機構の電子政府化を推進する役割を期待されていると思っているが、21世紀前半の日本改革の肝は、電子化よりもむしろ人材の流動化を高めることの方が先であると考えている。それは首になりやすい、辞めやすいが、すぐに職に就きやすい社会でもある。そして実力があれば、またスキルを磨けば次のステップに上がることが可能となる社会である。
DXはそのネット社会の構築手段の一つにすぎないのであり、事業者が儲かる社会ではない。
例を一つ上げよう、数年前に視察したある政令指定都市の社会福祉協議会は、都市の中に県社協、市社協、区社協、地区社協と4つあり、一人の要介護者に対してそれぞれ個別に紙上で個人情報を管理していた。これでは無駄ばかり多く、効率的な運営は難しい。しかも働き手(人材)の流動性が少ないため、組織は硬直化している。
こうしたことからもデジタル庁は、まず人材の流動化促進法策定と働き手の再教育・セーフティネット構築が先ではないか、と私は考えている。

digidepo_10486484_po_ART0002058291.pdf (ndl.go.jp)
元総務省地域情報化アドバイザー(委嘱期間13年間)
私は、1980年4月から6年8か月勤めたドイツ系外資系企業から、1987年2月に私立大学の経営コンサルティングセンターの研究員になった。本業の経営コンサルティング以外の自主研究として、前職の時から関心があった”情報”について勤務先の姉妹校短大の田中功助教授(後日、田中氏は、日本女子大学の教授となる)の先導のもとに共同研究を始めた。その成果が次の一連の論文(1989年~)だ。
専門図書館123号(1989年4月発行)の拙著の中に”情報財”という言葉が出てくる。

<以下の写真は、クリックすると拡大します>
そして情報財という言葉が、まだグーグルやほかの検索エンジンにも出てこない時期(1987年から1990年代初頭)にいち早く興味を持ち、その概念形成に果敢に取り組んだ(これを研究という)論文が、勤務先の大学法人の姉妹校である産能短大の1990年2月発行第23号の紀要に掲載された。それが次の拙著・論文(情報財の基礎理論に関する研究:査読あり、1989年10月受理)だ。
紙面の関係で写真はここまでとし、小論を詳しく知りたい方は当時筆者が在籍していた産能短大(現・自由ケ丘産能短大)の図書館(短大紀要第23号、1990)へご確認ください。
さらに当時新しく設立された情報文化学会の全国大会での発表とその成果をまとめたものが次のものである。すでに大学の研究員から大手銀行のシンクタンクに移籍(1991年)していたため、肩書は住信基礎研究所副主任研究員となっている。
当時1990年代の論文は、まだまだ手書きの図表が幅を利かしていた。次の図表も自ら描いたものだがたいへん懐かしい。
この時(1993年11月発表)の論文は、国立国会図書館のデジタルコレクション(学会誌は1994年7月発行)に収められているのでご笑覧ください。
この学会発表がご縁となり、大分県の豊の国シンポジウム(大分医科大学主催)から招待され、”情報と情報財”についての講演話しが舞い込んだ。しかもノーベル化学賞受賞者福井博士の前座で情報財の講演を行うのである。嬉しさ100倍である。
福井先生の写真の下にある会場の写真に私と後に東大教授になる川口さんも隣同士で写っている。統一テーマは「発想の原点を探る」である。私は、とうとう念願の「情報創造と情報財」について招待講演を行った(1994年5月)。
これらの「情報と情報財」に関する一連の研究が1987年から始まり、2007年から2020年3月まで連続13年間務めることになる総務省の”地域情報化アドバイザー”に繋がるのである。
その委嘱状は次の通りで、当初、総務大臣が任命しているが、途中から総括審議官(ナンバー3)に変わった。いま計13枚の委嘱状が、私の事務所の机の上にある。
予算の影響か?だんだん紙の質が低下していった。そのことが少し残念である。
☆彡
1990年代前半に住友信託銀行のシンクタンク勤務で感じたことを述べてみよう。
1991年に私が調査した日本全国のテーマパーク事業は、当時クライアントから求められた調査研究テーマの一つであった。1983年4月15日に東京ディズニーランドが開園してから8年が経過し、我が国のテーマパークの事業要因を考察してほしいという要望に基づいて行われたものである。
1992年の報告書3月版、9月版と2冊あり、2年度に渡って実施された。クライアントに納品された後、早速研究所の機関誌にその概要記事を書くようにと業務命令が来たが、その結果が次の機関誌(1993年1月、住信基礎研究所発行)に掲載された小論である。
*写真をクリックすると拡大します
しばらくして研究所の機関誌を見た外部の出版社から原稿依頼がきた。当時は外部への講演や寄稿は、研究所にその謝礼金や印税の半分を納めれば自由にやってよいことになっていた。次の写真の週刊ダイヤモンドへの寄稿は、1993年9月4日号である。
そして日本経済新聞社からの取材(上記の黄色の表紙もの)や銀座にあるレジャー&レクパーク関係の出版社からも寄稿の依頼がきた。
それが、次の「レジャーランド&レクパーク総覧1994」の第一章「日本のレジャーランド考」(1993年11月発行)への寄稿である。
☆
同時期に所属学会からも全国大会(東京・玉川大学にて開催)での発表依頼と掲載された学会誌の論文(当時銀行系の住信基礎研究所からオムロン系のヒューマンルネッサンス研究所へ移籍をしたばかり)


以上のように、研究テーマが面白ければ、芋づる式に仕事が舞い込み、全国から寄稿や講演の依頼、そしてコンサルティングの仕事が入ってきたのである。
研究員冥利に尽きないことは、この芋づる式の仕事発生や次の移籍先(1994年より)の研究所(オムロンの社会文化研究所)で、”コミュニティ・ビジネスが地域を元気にする”という新テーマとなって大きな花を咲かすのである。
29歳で普通のビジネスマンから研究所の研究員となり、かつ成果による年棒制となり、時間を気にすることもなく、眠気と格闘しながら、自由に研究テーマを考える時間が出来たことが、時には徹夜もいとわず、1週間同じ研究命題を考え続ける研究グセが付いたのである。このような研究グセも研究員としての矜持の一つである。
その想いの源は、当時日本のテーマパーク事業は、アメリカのようにショービジネスやエンターテイメントビジネスに関する知見やノウハウの蓄積に乏しく、特に、地方で苦戦している中規模の新規テーマパークを視察する度に、地方には地方にふさわしい地域資源を活用した、住民主体の小規模事業(地域開発、地域おこし)があるに違いない、という想いを強くしたことにある。
この想いが、1994年より移籍する新たな研究所(社会文化の研究所)の地方創生の研究で、”コミュニティ・ビジネス(住民主体のスモール・ビジネスで住民も地域経営に参画しよう)が地域コミュニティを元気にする”という研究テーマとなって、大きく花を咲かすのである。
そして、その後、着工中の日本映画のテーマパークや”峠と鉄道”のテーマパークの事業性評価の仕事が入り、公私ともに忙しくなる。また鉄腕アトムで有名なプロダクションから自社のテーマパークに関する事業計画書を見て欲しいとの連絡が入り、その協力に応じたが、そのテーマパークの着手、完成を見なかったことが、しごく残念なことであった。当時景気がわるかったことも一因であるが、テーマパーク事業に着手しないことも選択肢の一つであり、当時としては大英断だったかもしれない。
こうした成功率の低い大規模な地域開発が、次に着手していった”住民主導のスモール・ビジネス”である”コミュニティ・ビジネス研究の反面教師”となって、世の中を少しずつ変えていく手段の一つになるのであった。
☆彡
CB総研の資料整理をしていたら、細内所長のレクチャー集が出てきたのでご紹介しよう。
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☆当時所属していたヒューマンルネッサンス研究所の主任研究員、第三研究課長時代における小論(研究所機関紙より)
*画像をクリックすると拡大します
☆CB総研所長として”花農場あわの”の女性起業家若林さんを交えてある広報紙における細内レクチャー
*画像をクリックすると拡大します
☆福岡市役所におけるCB講演会のリーフレット
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☆都市住宅学会20周年記念シンポジウムにおけるパネラーとして招待された時のレクチャー
ダウンロード - e5a4a7e998aae5a4a7e5ada6e69ca8e5a49ae694afe983a8e3838be383a5e383bce382b9.pdf
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☆コミュニティ・ビジネス戦略をAFCフォーラム(日本政策金融公庫農林水産事業本部)に寄稿する
*
☆細内所長の松山講演(地域資源からビジネスへ)から地元研究機関がその考察(政策研究セミナー)を行う
ダウンロード - 2007e69dbee5b1b1e8ac9be6bc94e98cb2.pdf
☆
*画像をクリックすると拡大します
☆CB事例、ココ・ファーム・ワイナリーの紹介記事を監修する(これは、しんくみ情報誌『ボン・ビバーン』で、全国の信
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☆CB総研スタッフと一緒に「近代セールス」へ寄稿する
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☆法政大学大学院政策創造研究科の兼任講師時代、地域デビューについて「週刊ポスト」にコメントを寄せる
*画像をクリックすると拡大します
☆細内信孝著『新版コミュニティ・ビジネス』の201ページよりワーク・ライフ・バランスについての実例紹介
*画像をクリックすると拡大します
©東京侍制作委員会により『人にやさしい仕事』は制作されました。
*
*画像をクリックすると拡大します
昨日千葉商科大学へ講義に行きましたが、JR市川駅から大学までの大門通りのアプローチがそぞろ歩きに好都合で、私の好きな道の一つです。途中にコロッケの旨い肉屋があり、そして豆大福が美味しい和菓子屋もあり、かつ眠い時にパンチの利いた珈琲を出す喫茶店もありで、かつ道幅が狭く、車は一方通行です。これって私流の生活観光の視点です。大学へは寄り道で40分ほどかかりました。
こうして仕事の企画ものは練られる?

前回の福祉介護のロボットから、わが愛する手塚治虫の名前が浮かんだが、細内所長は10数年前、手塚関係のある幹部さんから”手塚治虫ワールド”事業構想のご相談を受けたことがある。国産テーマパークは、結果として幻に終わったが、実現していれば川崎沖に誕生し、羽田空港からのアクセスが確保されたことであろう。
純国産のテーマパークは夢として消えたが、当時は、たしか5案に及ぶ事業構想書を拝見した記憶がある。細内所長は当時住信のシンクタンクで地域開発の研究調査(追記:http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2022/01/post-7cb0d3.html)を担当していた。
そんな関係でコメントを求められたわけである。わが国を代表するシンクタンクのもの、大手広告代理店のもの、手塚関係のものと、事業構想書は多彩を極めていた。しかし一番事業構想に夢があったのが、手塚治虫の思想を受け継ぐ、手塚プロダクションの作成したものだった。今でも印象に残る”手塚治虫ワールド”のメイン・エントランスは、手塚先生のトレードマークであったベレー帽を模してあった。夢のある事業構想書であったが、実現しなかったのが、いまでも大変残念なことである。
そして手塚プロの幹部さんから、クリスマスイブの日に”鉄腕アトムのケーキ”を、その御礼として東京神谷町の職場(当時、その半年前に住信基礎研究所からヒューマンルネッサンス研究所へ転籍していた)まで直に届けていただいたのが今でも強く印象に残っている。
☆彡
当時頂いた年賀状と手塚治虫ワールドの基本構想書

その後、所用で東京高田馬場にある本社を訪問した時のもの
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リボンの騎士は私の好きなキャラクターの一つ
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ブラックジャックは、医師の資格を持つ手塚先生にしか描けないシリアスなドクター・キャラクターである
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